父の乳 (1968年) |
永年の謎として、「なぜ男に乳首があるのか?」ということがある。
ほとんど無用の長物であり、長い人類の歴史の中で淘汰され、消え去っていてもおかしくないはずのものだ。
どんなに男らしい男の中の男の胸にも、やはり乳首は存在する。
どんなにたくましく、鍛え込まれた大胸筋を持つ男の胸にも、それははっきりと存在し、ときには毛が生えていたりもする。
どんなにたくましく、鍛え込まれた大胸筋を持つ男の胸にも、それははっきりと存在し、ときには毛が生えていたりもする。
これはやはり、「男はしょせん女にかなわぬものだ」ということを知らしめ、戒めるための神の印した焼鏝のごときものだろうか。
そういえば、哺乳類で雄には乳首がない、という種はあるのだろうか。検索してもよくわからない。どうやらネコとか、身近な哺乳類には確認されているようだ。
この進化の謎について、ダーウィンはどのように応えるだろうか。
そういえば父と乳は、なぜ両方とも「ちち」なのだろうか。
語源として「ち」を重ねて言ったもの、とされている。ちち、はは、ぱぱ、まま、子供は音を二つ重ねて呼ぶものに愛着を憶える、ということなのか。
しかし、乳は子供にとって不可欠だが、父の方はそうでもない。
ましてや、父の乳などなぜあるのか不思議なくらいだ。
ましてや、父の乳などなぜあるのか不思議なくらいだ。
獅子文六の『父の乳』は、文六らしユーモラスなタイトルながら、中は自伝的なエッセイである。ややウィタ=セクスアリスっぽいところもある。
しかしこういう、タイトルだけでオチがついてるような本てのは、なんかずるいなあ、と思ったりする。
今日はチチの日。
早めに帰ってビールでも飲むことにしよう。
しかしこういう、タイトルだけでオチがついてるような本てのは、なんかずるいなあ、と思ったりする。
今日はチチの日。
早めに帰ってビールでも飲むことにしよう。
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