待つ身は辛い。それは蜻蛉日記を引かずとも、誰もが知っている、はずである。
しかし最近は文明の利器、スマホがある。ちょっと遅れても連絡がつく。これでゲームしてればたちまちに時間がつぶれる。待たせた方が「ごめん、待った?」と声をかけても、「ちょっと切りのいいとこまで待って」と逆に待たされたりする。そのうち「手持ち無沙汰」というのが死語になりそうだ。
「人は待つことで『女性化』する」というのはロラン・バルトのせりふだ。
ロラン・バルト、 恋愛のディスクール・断章 |
しかし、サミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』では、「女性」はいっさい出てこない。
女が出てこない演劇、ということで、なぜか重犯罪刑務所から慰問を依頼されたりもする。
ゴドーを待ちながら (白水Uブックス) |
劇が終るや看守の制止も聞かず拍手をし、歓声をあげ、房に帰る途中も劇について語ってやまなかった。
「ゴドーってのは誰だ」
「俺は思うね、ゴドーってのは娑婆だ」
「いや、俺は女だと思う」
そう、囚人たちこそが「待つ」ことの不条理性(それと女性性も?)を理解していたのだ。
さて、勅使川原三郎の『ゴドーを待ちながら』は、勅使川原三郎が独りで舞って(待って)いた。ウラジミールとエストラゴンは声だけが聞こえ、どこかの若手落語家が読んでいるのかと思ったら、勅使川原三郎自身が録音したものだった。
観客は舞台奥のゴドーがダンスするのではと、ずっと待っていた。そしてやっぱり、ゴドーは最後までその姿を見せなかった。
「ゴドーは来ない」
だがしかし、今は文明の利器スマホがある。ゴドーのメアドもラインもわからないなら、ゲームでもしながら待つことができる。文明の利器により、「待つ」ことの不条理から遠ざかる人々は、果たして来る「もの」がその姿を現さずとも、待ち続けることをどう感じるのだろうか。
0 件のコメント:
コメントを投稿