十代目金原亭馬生 噺と酒と江戸の粋 |
幼い頃、私は自分の誕生日を二七日だと思っていた。たぶん、誰かにそう教えられたのだろう。二八日だと記憶を訂正されたのは、小学校に上がる頃だった。この偽の記憶については、親父が主犯であろうとにらんでいる。親父は私が大学を卒業するときも、何かの書類に「二七日」と書いていたので、私が訂正した憶えがある。
別に深夜に産まれたわけでもないのだが、ちょっと居心地の悪い話だ。
とはいえ、落語家の十代目金原亭馬生に比べれば対したことはない。彼の父親は今や伝説と化した古今亭志ん生なのだが、長男が産まれても志ん生はなかなか届けを出さなかったらしく、誕生日どころか「昭和か大正かすらもあやふや」だったという。ちらっとした思い出話では、「うだるような暑い日だった」というのだが、届けられた誕生日は一月五日である。
長じて馬生は志ん生に質してみた。
「おとっつぁん、ほんとのとこ、おいらはいつの生まれなんだい?」
志ん生応えて曰く。
「ばかやろう、生まれたんだからそれでいいじゃねえか」
せいいっぱい―土井たか子半自伝 |
土井たか子死去の報に「おや、命日になったかな」と思ったら、二十日に亡くなられていたとのこと。うーん。
しかし、昨日はン十年ぶりに御嶽山が噴火した。前回の噴火のときは小学生だったので、うっすらと憶えている。テレビに登場した大学教授が、やたら「わかりません」「これから調査します」を連発していた。まあ、それまで有史以来噴火の記録がなく、「死火山」とレッテルされていたんだからしかたがない。ワイドショーでは「死んだはずだよ御岳山」などというテロップが流れたりした。
御嶽山は山岳信仰のメッカでもあり、御嶽講という集団ごとに山に登ることになっている。講によっては教団に成長したものもある。
数十年前、御嶽講のさかんな岐阜のとある村がダムに沈んだ。国から得た賠償金で、村人たちは東京でそれぞれにラブホテルを経営しだした。講のある日は、まだ夜の明けきらぬラブホテル街のあちこちから、白装束に笠に杖という成りを固めた人たちが現れ、駅に向かうのが見られたという。ラブホテルの名前は必ず「水」に関する名前が付けられたので、わかる人にはわかるようになっていたそうだ。以上は宮田登による。
木曽のおんたけさん―その歴史と信仰 |
ちなみに、それらのラブホが今も続いているかは定かではない。
今回の件で、さすがに一般登山客は敬遠することになると思うが、講や教団の人たちはそれでも登ろうとするだろう。どうなることか。
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