ヘンリー八世 |
そんなわけで、どんなわけだか知らんけど、ヘンリー八世は奥さんと別れて愛人と結婚するために、ローマ・カトリックに絶縁状を突きつけたのだった。
そしてさらにまた、当時のイギリスで絶大な勢力を持っていた修道院を叩き出し、その領地をぼっしゅーと(古い)したのだった。その土地がどのくらいのもんだったかというと、王国の土地財産のうち四〜五分の一を占めていたくらいだ。
それらの土地はほぼ、貴族・廷臣・官吏・ジェントリーに分け与えられ、より一層の格差の拡大に貢献したのだった。
さて、この「史上最も道徳を論ずる資格のない人」とされるヘンリー八世が死んだ(1547)後、ジェームズ一世らを経て、チャールズ一世にいたり、「ピューリタン革命」(1641)が起こった。
あまり語られることがないようだが、革命のキモは土地の分配にある。
まず、教会領が売り払われたが、それを購入したのは八割までがジェントリーや官吏だった。農民・手工業者が購入できた分は少なかった。先買を申告するためには申告者自身がロンドンに行くか、でなければ代理人を雇うしかなかったし、公示後三十日以内に購入価格の二分の一を支払うというのは、普通の農民には無理な相談だった。
王領地も没収後分売されたが、これは軍隊の未払い給与の支払い証書をもつものが優先された。しかし売却は六年後と定められ、困窮した多くの兵士たちは、支払い証書を投機業者に売り払ってしまった。
土地の謄本保有copyholdの廃止はかえって農民保有地を縮小させ、慣習的な共同権(放牧等)の廃止、地代の引き上げとなって現れた。
まあつまりは、革命といっても農民は割を食うばかりだったのだ。
革命はやがて支持を失い、頓挫する。
それは「土地の再分配」が思ったようにいかなかった、というのが原因と思われる。
市民革命において、農業の問題はほぼ土地の問題とイコールである。封建領主制の廃止とそれにともなう土地の再分配をいかにするか、ということが革命の正否にかかってくる。
フランス革命はピューリタン革命よりは上手くやったが、それでも県によっては農民の取得率が一〜二割にとどまったし、またもともと土地を持つものがさらに所有するパターンが多く、農民同士の間で格差が拡大してしまった。
革命と呼ばれるものについて見ていくと、やはり土地の問題が重要であると知らさせる。
ピケティのいうように格差が常に拡大し、その傾向が「固定化」するのは、やはり土地が大きな役割を果たしているわけだ。
まあしかし、まだそのまた「向う」があるようにも思えるのだが……
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