いや実際、迷っている人間は苦しそうな顔をしつつもどこか楽しげだ。なぜなら、迷っている間は、そこに「自由」があるように感じられるから。何かを選択すれば、ただちにその「結果」という不自由を受け入れざるを得なくなる。ビュリダンの驢馬が飢えて死ぬのもむべなるかな、と思える。
しかし現実には、人間が「迷う」ことなどない、となったらどうだろう。
迷いに迷って緻密な論理をくみ上げて選択した結果が、そんなの全然関係無しにカンで決まっていたのだとしたら?
実際、そういうイジワルな実験をした人がいて、それは「リベットの実験」と呼ばれている。
マインド・タイム 脳と意識の時間
どういう実験かというと、脳のモニタリングをしつつ、身体の数カ所に電極をつないで、身体を動かすとき脳がどんな振る舞いをするのか確かめたのだ。そうしたら、例えば「指を動かそう」と判断して指を動かすより、コンマ数秒早く脳が動かす準備をしている、という結果が出た。この動かす準備のことを準備電位と呼ぶんだが、この電位は「意思によって発生させることはできない」のだ。
つまり、人間の「自由意志」なんてものとは関係無しに、とっくに脳がその行動を決定してしまっている、ということ。
コンマ数秒なんだから意識しなきゃ誤差の範囲内、なんてすませるわけにはいかない。なんたってことは近代自我の存在に関わってくるんだから。あれかこれか、なんて「迷い」は、脳に準備電位が起きればまったく無意味になってしまうのだ。ひえー。
人間の将来とバイオエシックス 〈新装版〉 (叢書・ウニベルシタス)
……と、いちおう驚いては見せたんだけど、なんだろうね、自分の中に「これはこれでアリなんじゃね?」と受け容れる部分がある。
ハーバーマスなんか、「これは脳神経科学からの近代社会への挑戦だ」みたいにいきり立って、「二重アスペクト理論」によって反論したりしてる。その内容については『人間の将来とバイオエシックス』を読んでもらうとして、なんで自分にこの実験結果を受け容れる余地があったりしてしまうのか、というフシギについてちょっくらメモっておきたい。
要するにこれって、「業(カルマ)」なんでしょ。
業が目に見える形で、全体ではないけど測定できちゃってびっくり、な話なんじゃないかと思う。だからこの実験のことを聞いても、自分の中に「ふーん」と動じない部分があるのは、やっぱり心の底のすみっこの継ぎ目の隙間のボンスターでごしごしやっても落ちないあたりに、「仏教」てやつがこびりついているからだろう。三位一体で神を肉化することで自由を得た的なキリスト教徒(ヘーゲル的解釈で)には、衝撃の新事実だったりするんだろうけど。
地獄の思想―日本精神の一系譜 (中公文庫)
じゃあ人間の行動ってのは、運命的宿命的に最初から最期まで決められちゃっているのか? というところに結論がすっ飛んだりするんで、ハーバーマス御大ががたがた言ってんだろうけど、実は全然そんなことはないと思う。
むしろ、「自由」てのは、そこから発生するんじゃないのかな。
とここまできたところで、また次回に。
あ、これ、一応前回からの続きなんで。
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