生まれて初めて遭遇する「書物」、紙の束の中にあるもう一つの世界について、半ば強制的に子供の記憶に残るものは、半ば「悪夢」でもあるだろう。
2016年1月31日日曜日
2016年1月27日水曜日
2016年1月25日月曜日
ただそれを「野蛮」であるということにしてしまう視線について
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現今、天下の男色を談ずるものは、ややもすれば、閩(びん、福建省の町)と広(広東・広西)の地方とを語り草にする。しかし、呉・越から燕・雲に至るまで、この好みを知らないものはないのである。陶穀の『清異録』には、「京師(みやこ)の男子は、自分の体を自ら売りに出し、送り迎えして恬然としている」とのべている。とすれば、この風習が唐宋のころから、すでにあったことが知られよう。いま帝都には小唱があって、もっぱら士大夫の酒席の御用を勤めているが、おそらく官妓が禁じられたので、これを用いざるを得なかったのである。その初めはみな浙江の寧波・紹興の人であったが、近頃では半ばは臨清(山東省)のものである。だから南と北の小唱に分かれているが、群に随い隊を逐うという状態で、佳いものは少ないのである。たまに一人でもいると、風流な士大夫たちなら、力を尽くして招き寄せようとしないものはなく、国じゅうが狂ったようになるのである。……
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現今、天下の男色を談ずるものは、ややもすれば、閩(びん、福建省の町)と広(広東・広西)の地方とを語り草にする。しかし、呉・越から燕・雲に至るまで、この好みを知らないものはないのである。陶穀の『清異録』には、「京師(みやこ)の男子は、自分の体を自ら売りに出し、送り迎えして恬然としている」とのべている。とすれば、この風習が唐宋のころから、すでにあったことが知られよう。いま帝都には小唱があって、もっぱら士大夫の酒席の御用を勤めているが、おそらく官妓が禁じられたので、これを用いざるを得なかったのである。その初めはみな浙江の寧波・紹興の人であったが、近頃では半ばは臨清(山東省)のものである。だから南と北の小唱に分かれているが、群に随い隊を逐うという状態で、佳いものは少ないのである。たまに一人でもいると、風流な士大夫たちなら、力を尽くして招き寄せようとしないものはなく、国じゅうが狂ったようになるのである。……
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2016年1月24日日曜日
2016年1月23日土曜日
「ティダック・アダ、アルティニャ(意味はない)」とベネディクト・アンダーソンが言ったわけではないが
その言語の特徴として、
「いくつかの言語が混ざりあって作られている」
「現代世界の技術用語や思想的抽象概念から、おびただしい数の、そしてほとんどあらゆる分野からの借用からなっている」
「公的な場での演説を全くわからないまま、多少とも感動的に聴いてしまう平均的な国民にとって、その輸入の語彙の部分はほとんど理解しがたいものである」
「もったいまわった言い回しのごった煮であり、諸言語の魔法のような混融状態である」
ベネディクト・アンダーソン『言葉と権力』にある、インドネシア語についての記述である。
やや書き換えて冒頭に並べたのは、こうしていきなり突きつけられると、まるで日本語のことを言っているように感じられるからだ。
そしてこれらは、普段日本人が目を背け、忘れようとしている、鏡の中の映し姿でもある。
「いくつかの言語が混ざりあって作られている」
「現代世界の技術用語や思想的抽象概念から、おびただしい数の、そしてほとんどあらゆる分野からの借用からなっている」
「公的な場での演説を全くわからないまま、多少とも感動的に聴いてしまう平均的な国民にとって、その輸入の語彙の部分はほとんど理解しがたいものである」
言葉と権力― インドネシアの政治文化探求 |
ベネディクト・アンダーソン『言葉と権力』にある、インドネシア語についての記述である。
やや書き換えて冒頭に並べたのは、こうしていきなり突きつけられると、まるで日本語のことを言っているように感じられるからだ。
そしてこれらは、普段日本人が目を背け、忘れようとしている、鏡の中の映し姿でもある。
2016年1月18日月曜日
国家とは忘れ去ることなりとベネディクト・アンダーソンが言ったわけではないが
定本 想像の共同体― ナショナリズムの起源と流行 (社会科学の冒険 2-4) |
愛しの「恋人」インドネシアの地において。
しかしその「恋人」は、ベネディクト・アンダーソンを十八年もの間突き放していたことがある。
原因は、「恋人」の「不行跡」についての批判である。
2016年1月17日日曜日
2016年1月15日金曜日
とりあえず『ベルサイユのばら』を読んでおけば良かったのかだろうか?
ベルサイユのばら 全5巻セット (集英社文庫(コミック版)) |
なぜかと言うと、男どもがジャンプで『北斗の拳』や『こちら葛飾区亀有公園前派出所 』を読んでいた時、女性達は『あさきゆめみし』で源氏物語に触れ、『ベルサイユのばら』でフランス革命についての知識を仕入れていたからだ。
こうした「教養」の差が、のちにゴーマニズムなんぞにひっかかるかどうかという品性の差につながった、と考えるのはうがちすぎかもしれないけれど。
2016年1月13日水曜日
音楽とダンスの密接な関係もしくは勅使川原三郎『ダンスソナタ 幻想 シューベルト』について
あれは確か一九八九年のことだったと思う。フランス革命二百周年とのことで、この極東のおよそ革命とは縁のない島国でも様々なイベントが行われた。あまり目立たない形で。
その一環というわけだったのだろうが、モーリス・ベジャールの小品集の公演で、ベートーベンの交響曲の一番と七番と八番と九番をちょっとづつ振り付けて踊る、という作品を見た覚えがある。フランス革命が起きた年の一七八九年にひっかけてあるわけだ。ベートーベンはドイツ人だが、革命の同時代人でもある。これは非常に印象的な作品だった。何がどう印象的だったかというと、見ているうちにとても眠たくなったということだ。私だけかと思ったら、周囲の人たちもそうだったらしい。これほど過剰に退屈を経験したことはなかった。そのときふと、「交響曲」というものは、それによって踊ることを拒絶している音楽なのだな、と思った。
その一環というわけだったのだろうが、モーリス・ベジャールの小品集の公演で、ベートーベンの交響曲の一番と七番と八番と九番をちょっとづつ振り付けて踊る、という作品を見た覚えがある。フランス革命が起きた年の一七八九年にひっかけてあるわけだ。ベートーベンはドイツ人だが、革命の同時代人でもある。これは非常に印象的な作品だった。何がどう印象的だったかというと、見ているうちにとても眠たくなったということだ。私だけかと思ったら、周囲の人たちもそうだったらしい。これほど過剰に退屈を経験したことはなかった。そのときふと、「交響曲」というものは、それによって踊ることを拒絶している音楽なのだな、と思った。
2016年1月11日月曜日
小麦といかさま師とフランクフルト学派
2016年1月7日木曜日
2016年1月6日水曜日
初春のめでためでたのめでたさで「アベノミクス」とやらをどうすればいいのか書いてみる
アベノミクスの終焉 (岩波新書) |
>「アベノミクス」による経済再生は足踏み状態にある。
と元旦の社説に書いてしまう新年となったわけだけど、日経平均は初っ端からメリメリ下がるわ、サウジとイランはケンツクするわ、北朝鮮は水爆実験するわ、せっかくの初日の出もひっこみそうな勢いだ。
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