でもちょっとだけ内容に足りない部分があるので、こっちに改訂版をアップしてみることにした。
(以下、改訂版)
(以下、改訂版)
なんか煽り気味のタイトルを付けてしまいましたが、「馬鹿」というか、「わかってないなー」と思うわけで、まあやっぱり一言で言って「馬鹿」なわけです。ばーか。
えーっと、放射能についてなんですが、「正しく恐がる」という人たちがいるわけです。
で、これが一見正しそうに見えて実は大事なことを見落としているんですね。
それは、「自分は頭が良い!」って思ってる人がよくやるあやまちです。
たとえば、先日無免許居眠り運転で事故った兄ちゃんが、どういうわけか無罪放免になって、「俺は二度と事故らない!ちゃんと免許も取った!」といってタクシーの運転手を始めたとしたらどうでしょう?
それに乗りたいと思いますか?
黙ってられたらわからん、という意見もあるでしょうけど、そういうのは置いといて。
例えが乱暴なのは、わざとです。このくらい刺激的にしないとピンとこないでしょ。
つまり、問題は「信用」なんです。
科学は「信用」をなくしてしまったんです。3.11以降のごたごたで。
それなのに口を開けば「科学的に考えることが大事だ!」って、それじゃだめだめです。
そりゃ「科学的に実証された事実」と「社会的な信用」なんてものは、全然違うもんです。だけど社会ってのは科学だけでできてるわけではない。それよりも「信用」でやつで動いている。
まず、「信用」とは何か。
それは「凡人が生きるための道」です。
大金持ちだったり、東大出だったり、甲子園で優勝したりすると「信用」なんてものは天から降ってきます。美人だったり、やたら口がうまかったり、平気で嘘がつけたり、そういうことでも得られたりしますね。反則気味ですが。
しかし、生まれつきの能力が劣っていたり、大した資産の持ち主でなくても、そして運動音痴でも、器量が悪くても、口べたでも、誠実に堅実な努力を積み重ねることさえできれば同等の、ときにはそれ以上の「信用」を得ることができるんです。
これは、大多数の人間が生きていくために、そして社会が正常に機能するために、絶対に必要なことなんです。
ただし「信用」ってのは、まったく非論理的で非理性的で、もちろん非科学的なもんですから、運用次第で関係のないとこにとばっちりが行ったりします。
福島の農産物が売れないこともそうですね。信用を失ったのは「科学」のほうなんですが、農家がそのとばっちりを受けてるんです。それなのに「科学」の側は知らんぷりで、「科学的に考えないやつが悪い!」というばかり。だからその「科学」の「信用」が失われてるのに、どうして「科学的に」考えられるんだ、って話。
「百年積み上げた信用も、失うときは一瞬だ」てのはよく言われることであります。
では失った時どうすればいいか?
また百年積み上げるしかやりようがないんです。
科学はその本分に還って、地道に科学的な成果を見せていくしかありません。
「科学者は語らない。ただ記述するだけだ」というマッハの台詞に還ればいい。
「信用」なんかより「科学」の方が大事だろ!という人もいるんでしょうけど、比べてもしょうがないんですよ。てか、比べられると思ってることが頭が悪い。
もし、「信用」の代わりを「科学」が担うことになったら、そのとき「科学」は科学ではなくなります。
科学がイデオロギーになるのは、そういう時です。
またイデオロギーの話になってしまいましたが、気づいてない人が多すぎるんでせめて自分くらいはきちんとしておこうと、まあ、あの、そんなとこです。
「科学はイデオロギーから一番遠いところにあるから、科学的に考える俺はイデオロギーとは無縁だ」と無邪気に信じてる人がいたりするんですが、そういう人が一番タチが悪い。知ってますか?ボリシェヴィキは「科学的に政治をする」つもりだったんですよ?自分たちだけはイデオロギーから離れていられる、と思ってたんですよ?その結果どうなりました?
つまり、放射能を「正しく恐がる」とか言ってる人たちは、知らず知らずのうちにイデオローグになっちゃってるんですね。そんなことくっちゃべる前に、黙って福島の農産物食べてりゃいいんです。そういうのに限って、スーパーで輸入ものを選んだりしてそうですが(あ、これは邪推です)
最後に、「正しく恐がる」の由来は寺田寅彦だそうですが、彼の言う「正当にこわがる」ってのは多くの人が使ってるのとは別の意味です。「こわがらなきゃいけないものは、ちゃんとこわがりましょう。無根拠に『へーきへーき』とか言わないようにしましょう」てことです。有名な「災難は忘れた頃にやってくる」もそうですが、この人は都合よく使われ過ぎですね。
寺田寅彦の科学エッセイを読む (祥伝社黄金文庫)
えーっと、放射能についてなんですが、「正しく恐がる」という人たちがいるわけです。
で、これが一見正しそうに見えて実は大事なことを見落としているんですね。
それは、「自分は頭が良い!」って思ってる人がよくやるあやまちです。
たとえば、先日無免許居眠り運転で事故った兄ちゃんが、どういうわけか無罪放免になって、「俺は二度と事故らない!ちゃんと免許も取った!」といってタクシーの運転手を始めたとしたらどうでしょう?
それに乗りたいと思いますか?
黙ってられたらわからん、という意見もあるでしょうけど、そういうのは置いといて。
例えが乱暴なのは、わざとです。このくらい刺激的にしないとピンとこないでしょ。
つまり、問題は「信用」なんです。
科学は「信用」をなくしてしまったんです。3.11以降のごたごたで。
それなのに口を開けば「科学的に考えることが大事だ!」って、それじゃだめだめです。
そりゃ「科学的に実証された事実」と「社会的な信用」なんてものは、全然違うもんです。だけど社会ってのは科学だけでできてるわけではない。それよりも「信用」でやつで動いている。
まず、「信用」とは何か。
それは「凡人が生きるための道」です。
大金持ちだったり、東大出だったり、甲子園で優勝したりすると「信用」なんてものは天から降ってきます。美人だったり、やたら口がうまかったり、平気で嘘がつけたり、そういうことでも得られたりしますね。反則気味ですが。
しかし、生まれつきの能力が劣っていたり、大した資産の持ち主でなくても、そして運動音痴でも、器量が悪くても、口べたでも、誠実に堅実な努力を積み重ねることさえできれば同等の、ときにはそれ以上の「信用」を得ることができるんです。
これは、大多数の人間が生きていくために、そして社会が正常に機能するために、絶対に必要なことなんです。
ただし「信用」ってのは、まったく非論理的で非理性的で、もちろん非科学的なもんですから、運用次第で関係のないとこにとばっちりが行ったりします。
福島の農産物が売れないこともそうですね。信用を失ったのは「科学」のほうなんですが、農家がそのとばっちりを受けてるんです。それなのに「科学」の側は知らんぷりで、「科学的に考えないやつが悪い!」というばかり。だからその「科学」の「信用」が失われてるのに、どうして「科学的に」考えられるんだ、って話。
「百年積み上げた信用も、失うときは一瞬だ」てのはよく言われることであります。
では失った時どうすればいいか?
また百年積み上げるしかやりようがないんです。
科学はその本分に還って、地道に科学的な成果を見せていくしかありません。
「科学者は語らない。ただ記述するだけだ」というマッハの台詞に還ればいい。
「信用」なんかより「科学」の方が大事だろ!という人もいるんでしょうけど、比べてもしょうがないんですよ。てか、比べられると思ってることが頭が悪い。
もし、「信用」の代わりを「科学」が担うことになったら、そのとき「科学」は科学ではなくなります。
科学がイデオロギーになるのは、そういう時です。
またイデオロギーの話になってしまいましたが、気づいてない人が多すぎるんでせめて自分くらいはきちんとしておこうと、まあ、あの、そんなとこです。
「科学はイデオロギーから一番遠いところにあるから、科学的に考える俺はイデオロギーとは無縁だ」と無邪気に信じてる人がいたりするんですが、そういう人が一番タチが悪い。知ってますか?ボリシェヴィキは「科学的に政治をする」つもりだったんですよ?自分たちだけはイデオロギーから離れていられる、と思ってたんですよ?その結果どうなりました?
つまり、放射能を「正しく恐がる」とか言ってる人たちは、知らず知らずのうちにイデオローグになっちゃってるんですね。そんなことくっちゃべる前に、黙って福島の農産物食べてりゃいいんです。そういうのに限って、スーパーで輸入ものを選んだりしてそうですが(あ、これは邪推です)
最後に、「正しく恐がる」の由来は寺田寅彦だそうですが、彼の言う「正当にこわがる」ってのは多くの人が使ってるのとは別の意味です。「こわがらなきゃいけないものは、ちゃんとこわがりましょう。無根拠に『へーきへーき』とか言わないようにしましょう」てことです。有名な「災難は忘れた頃にやってくる」もそうですが、この人は都合よく使われ過ぎですね。
0 件のコメント:
コメントを投稿