2015年11月30日月曜日

おばけは死なないから水木しげるは死なないはず

総員玉砕せよ! (講談社文庫)

 水木しげるの訃報を目にした時、思わず「げ」と声が漏れた。続いてついつい「ゲゲゲのゲ」と歌ってしまった。
 と、このように書いていても、全くその死を事実として受けとることが出来ない。いやもう、生きながら妖怪になっている人が、今更「おかくれ」になったからと言って、何を悲しむことがあろう。きっと今頃、身軽になって、そこら中を飛び回っているに違いない。

 調布と言う町に長く住んでいるので、妖怪水木しげるに出くわすことはままあった。飄々という形容詞がよく似合う態で、自転車に乗ったりコンビニで中華まんを買ったりしていた。
 きっと調布市では何らかのイベントが開かれることだろう。
 しかし、町中で喪に服すとかは願い下げにしてもらいたい。
 そうだ、以前こんなネタをブログに書いたことがあった。

2015年11月29日日曜日

『メノン』の新訳をを読んでみたらさっぱりわからなくなっている自分に気がついた

メノン―徳(アレテー)について (光文社古典新訳文庫)

 光文社古典新訳文庫で『メノン』の新訳が出たので読んでみた。
 そしたら文章がわかりやすくなってたのに、さっぱりわからなくなっていた。
 昔、岩波ので読んだときわかったように思ったのは、あれは錯覚だったのだろうか。うーん、そうなんだろうなたぶん。
 この本は、ソクラテスとメノンが徳(アレテー)について行った対話をプラトンが記録した、という体裁をとっている。メノンはちょっと頭が良くて生意気でイケメンの青年だ。そしてソクラテスの方は「めくれ鼻」で「出目」のおっさんである。
 ソクラテスの物言いは、つっこみどころがいっぱいだ。しかし、昔はそれがわからなかった。だからわかったような気がしていたのかもしれない。今はつっこみどころがわかる。と同時にそこにつっこんでも何の得にもならない、ということもわかる。そんなことをすれば、くだらない議論が何度も何度も何度も蒸し返され、自分で自分のバカさ加減に嫌気がさしてくる、という結果をもたらすことになるだけだろう、ということまでわかる。でもそれは『メノン』を読了したからこそわかる、言わば後知恵といういやつだ。

2015年11月28日土曜日

高尾山の知られざる過去

    高尾山には何度も何度も何度も登った。
 きっかけは妻の出産予定日がやや遅れたことで、助産院から「高尾山に登りなさい」とご下命いただいたことである。まだミシュランの星なんかついてなかったし、道は暗いし手すりはないし、蛸杉は柵なんかなくてさわり放題で、道中案内の看板すらもなかった。
 今じゃうっかり連休に行ったりすると、昔の原宿ホコ天なみの混みっぷりで、今年はふもとに温泉まで掘ったとのこと。どこまで客を集めるつもりなのやら。
 さて、そんな高尾山の知られざる一面をここにご紹介しようと思う。

2015年11月26日木曜日

「死なない子供」荒川修作はどのように死んだか

 二〇一〇年、荒川修作という芸術家が死んだ。
 世の中にはいろいろな芸術家がいて、芸術家でありながら派閥のボスだったり、芸術家でありながら太鼓持ちだったり、芸術家でありながらドサまわりの芸人だったりするものだが、この人は芸術家という以外の呼び名が当てはまらないような芸術家であった。
三鷹天命反転住宅
    その作品についてあれこれ述べるよりも、東八道路を走っていると道路脇に見えてくる奇妙な住宅を作った人、と言った方が通りがいいかもしれない。三鷹天命反転住宅は、作者が死んでもなお、そこに在りつづけている。
 その元でもある養老天命反転地の方も、一度は訪れてみたいと思いつつ、まだその機会にめぐまれない。自分の故郷(岐阜)にあるというのに、どうにも足を伸ばすことができないでいる。
養老天命反転地
    荒川修作は「死なない子供」だった。「死」という宿命を拒絶することが、彼の生涯のテーマとなっていた。
 しかし、「死」は思いもよらぬ方向からやってくる。
 にこやかに微笑みながら、最大の理解者のような顔をして。

2015年11月18日水曜日

裸の王様のおとなりで女王様が裸踊りしているという状況について

「王様は裸だ!」というのはよく政治の場で使われるレトリックである。
 では、女王様の方は裸にならないのだろうか?その方が大衆に受けるし、子供がそれを指摘したなら、周りの人間が必死で子供を黙らせるだろう。
 経済学という学問は、「社会科学の女王」を名乗っている。
「王様(政治)」はよく裸にされるのに、「女王様(経済)」が裸にされないのはなぜか。やっぱ倫理的な問題があるのか。
 つまらんジョークはさておき、人が経済学に対してつっこみづらいのは、やっぱり貧乏より金持ちがいいし、不況より好景気がいいし、そうした大衆の欲望を体現する学問だからだろう。

 が、しかし、その「女王様」が、ストリップをおっぱじめてしまっている。他ならぬ、この日本で。

2015年11月16日月曜日

『正法眼藏』は百歳未満の講読を禁ず

永平正法眼藏蒐書大成 19
(注解・研究篇 9)
    果たして人間は、ものが見えるままに見ているだろうか。ということは誰もが一度は疑問を抱く。それはおよそ幼い頃のことで、成長するにつれて疑問を抱いたことすら忘れてしまう。しかし、まれにその疑問を死ぬまでずっと抱いたままの人もいる。さらにまれなるは、その疑問を解いてしまう人もいるということだ。
 そうした人は、「悟りを得た」と呼ばれる。

2015年11月15日日曜日

『正法眼藏』は十八歳未満の講読を禁ず



   禅寺と言えば女人禁制、修行中の僧侶は女人の香りをかぐことすらない、なんて言われたりするのだが……

2015年11月14日土曜日

『正法眼藏』は五十歳未満の講読を禁ず

「禅は一万人に一人の天才のための宗教だ」と司馬遼太郎は言っていた。
 じゃあ、日本にはそうした天才がざっと一万人いるわけで、集まったなら信者数一万人の宗教団体になる。そう考えると、わりと普通な感じだね。
 まあ、つまらん揚げ足取りはともかく、「禅問答」といえばわけのわからんことの例えになってるくらいで、「禅」というやつがとんでもなく難しい宗教であることは確かだ。それはいったいどのように難解であるのか? 曹洞宗を開いた道元による『正法眼藏』から引用してみよう。

2015年11月12日木曜日

「みんなビンボが悪いんや」という身近かすぎてわからない身近かな真理についてわからせるにはどうすればいいかということ



「貧乏」というものがよくわからなくなって久しい。
 いや、私自身は身に沁みているのだが、社会全体によく通じないように思える。そして、どのようにすれば多くの人々に理解されるのか、というのはより一層わからない。と、このように書いても「俺はわかってる!」と言いつつわかってない人は多いわけで、「わかってる」人にさらにわからせるのはどうすればいいのかもわからない。

「貧乏」というものは、未来が剥奪されることによって起こる。
 自分の未来が描けないので、目の前のことしか考えられなくなる。
 だから、「貧乏が嫌だったら、死に物狂いでがんばればいいだろ」というのは、わかってない人の言い草である。「がんばる」というのがどういうことなのか、わからなくなるのが「貧乏」というものだからだ。

2015年11月11日水曜日

科学という名の非人間的な「何か」もしくはららら科学の子

 今世界に、マッドサイエンティストと呼ぶに値する人間はどれくらいいるだろう。たとえいたとしても、その人間は陽のあたるところにはでてきていないはずだ。
 マッドサイエンティストは人体実験が大好きだ。
 ナチスや七三一部隊のようなものでなくとも、人間の「精神」に対する実験はちょくちょく行われている。それは病原菌や薬剤や解剖を強いることはないが、もしかするともっと残酷といえるかもしれないような、そんな結果をもたらしたりもする。

2015年11月6日金曜日

科学という名の非科学的な「何か」もしくはららら科学の子

「知」の欺瞞――
ポストモダン思想に
おける科学の濫用 
(岩波現代文庫)
    一九九四年、「ポストモダン」てやつがまだ世間をぶいぶい言わせていた頃、その足元のカーペットがひっぺがされてみんながずっこける、トムとジェリーのような事件が起きた。
 アラン・ソーカルという名の物理学教授が、適当な論文に適当な数式をばらまいただけの、永谷園松茸の味お吸い物みたいなパチもん論文を「ソーシャル・テキスト」という哲学雑誌に投稿したところ、それがバッチリ掲載されてしまったのだ。
 この「偉業」により、ソーシャル・テキストの編集長は、その年のイグ・ノーベル賞に輝いた。
 これに勢いを得たソーカルは、同僚とともに『「知」の欺瞞――ポストモダン思想における科学の濫用』という本を出版し、ポストモダンと呼ばれる思想においていかに「科学」がでたらめに援用されているか、について暴き立てたのだった。
 現在においてもこの事件の影響は少なからず残っており、ポストモダンな思想家を揶揄するための定番ネタとなっている。

 どうやらけっこう複雑難解な哲学を操る人でさえ、科学というものに対しては、ただ「科学っぽい」というだけで信用してしまう傾向があるようだ。
 では科学者自身はどうだろう?
 やっぱりモチは餅屋なんだから、「科学っぽい」ものに騙されたりすることはないのだろうか?

2015年11月1日日曜日

本当に忘れるためにはまず思い出さなくてはならないが何を思い出せばいいのかわからないということ もしくは『ルック・オブ・サイレンス』についてのつづきのつづき


 上掲はピーター・ウィアー監督の『危険な年 The Year of Living Dangerously』のラストシーンである。主人公のジャーナリストは、共産党の男に助けられ、空港へとたどりついて脱出する。
 この映画は一九九九年までインドネシアでは上映を禁じられていた。現在ではテレビでも放映されたそうだ。ピーター・ウィアー監督の名前は、『ピクニックatハンギング・ロック』での方がよく知られているだろう。ウィアーはオーストラリア人である。そして、オーストラリアとインドネシアは軍事的に互いを仮想敵国としている。