「女性は、阿羅漢(聖者)の悟りをえることはできないのでしょうか?」
ブッダは答えた。
「そんなことはありません。女性も阿羅漢に達することができます」
(原文はもっとだらだらと長い)
この答を得たアナンダは、マハー・パジャーパティー・ゴータミーと、彼女に率いられた二十数人の女性の出家をブッダに認めてもらった。マハー・パジャーパティーはブッダの叔母(母方)でもある。
で、そのあとブッダは女性の修行者に「八重法」を提示し、男性の修行者の風下に立つことを義務づけた、というのが一般に流布する仏教のお話だ。ちなみに「八重法」とは以下のようなもの。
一、(比丘尼は)出家後百年経ていようと、比丘には誰であれ礼拝しなければならない。
二、比丘を罵ったり謗ったりしてはならない。
三、比丘の罪・過失をみても、それを指摘したり告発したりしてはならない。
四、式叉摩那(しきしゃまな、見習い修行者)として二年間過ごせば、具足戒を受けても良い。
五、僧残罪(十三の禁忌から成る。えっちや贅沢しちゃだめっての)を犯した場合、比丘比丘尼の両僧伽で懺悔しなければならない。
六、半月毎に比丘のもとにて、教誡を受けなければならない。
七、比丘のいない場所で、安居(あんご、集団での修業)してはならない。
八、安居が終われば、比丘のもとで自恣(じし、反省会みたいなもの)を行わなければならない。
いろいろとなんかイヤらしい感じがする規律だが……どうやらこの付け足しは、ブッダが死んだあとずいぶんたってから、勝手に付け加えられたものらしい。
男性を絶対上位に置くバラモン教からの影響を免れなかったようだ。
近年(といっても数十年前だけど)、パーリ語の仏典『テーリーガーター』の研究などから、実はブッダ自身は男女の修行者を差別しなかったことが明らかになっている。
しかし、ブッダの生きた時代において、そしてその後においても、女性は下に見られるのが当たり前で、それはインドだけでなく世界中がそうだった。
ところが、仏教が出現して百年ほどしたあとで、チャンドラグプタの宮殿を訪ねたギリシャ人メガステネスMegasthenesが、その旅行記『インド誌 Ta Indika』にこう書き記している。
「インドには、驚くべきことが有る。そこには女性の哲学者たちphilosopoi がいて、男性の哲学者たちに伍して、難解なことを堂々と論議している!」
とまあ、実際ブッダは当時ありえないくらいの平等思想を展開していたのだが、それはブッダの入滅後にどんどん後退し、中国や日本に伝わると「女人成仏のたとえなし」なんて言われるようになる。ただ『法華経』などには女人成仏の話があることはあるんだけど、それは男性に変身(変成男子)でなされることになってて、なんかこじつけ臭い。
で、何が言いたいかというと、これ。ひと月ほど前の話だけど。
http://www.huffingtonpost.jp/2014/10/27/the-global-gender-gap-report-2014-_n_6058530.html
去年105位だったから、一つだけ上がってるけどね。そんで去年もそのことについてエントリーを書いた。
去年105位だったから、一つだけ上がってるけどね。そんで去年もそのことについてエントリーを書いた。
がんばらなくっちゃ?
で、これを書いた当時からぜーんぜん状況は変わってなくて、むしろ悪化したように見える部分もある。今度の内閣の女性閣僚のメンツ(二人も辞めた上に今度解散しちゃうけど)からして、まるで男を立ててあがめる右翼的女性でなければ出世できない、みたいな感じだもんね。これって、最初の方に書いた「八重法」と似たような考えから来ている。認めはするけど、梯子ははずすよ、っての。これで男女平等を実現とかちゃんちゃらおかしいんだが、ご本人たちはいたってまじめだったりするんで困ったもんだ。
来年、さらに下がってなきゃ良いけどね。
仏教のなかの男女観―原始仏教 から法華経に至るジェンダー平等の思想 |
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