ゴルゴ13で楽しむ リアル世界裏紀行: 観光ガイドブックには掲載されない、 世界各地の真実を紹介! (C&L MOOK My First Knowledge) |
それがどんな設定なのか、ゴルゴ最後のスナイプの標的は誰なのか、というのは別に知ったこっちゃないが、自分個人の考えとしては、多分ゴルゴが今まで溜め込んだ国家予算並みのお宝が、どのような目的に使われるかという話になるんじゃないかと思う。
ほとんど読んでないけど、そういう話ってこれまでなかったでしょ?あったんならスンマセン。でもその話が銃器や逃走経路の確保に金を使ってました、という程度だったらギャラの全額には届かないと思うけど。
暗号名はジャッカル。
ゴルゴのようにヒロイックではなく、背後に立つ人間に後ろ回し蹴りを喰らわせたりはしないが、ただただ標的を追うストイックな仕事ぶりは、多くの人たちの共感を得た。
しかもジャッカルは、スイスの銀行に口座があるというわけではない。無報酬なわけはないだろうが、どこか「金よりも仕事」な空気が漂っている。ありえないほどストイックでハードボイルドで、主にビジネスマンの方々が声をそろえて称賛した。
なんでだろ?
その仕事振りが、「資本主義」を象徴していたからだ。とにかく金を稼ぐこと、財を積み帳簿の数字を増大させること、そればかりをめざすような資本主義と、このストイックなスナイパーと、どこに共通点があるのか?
プロテスタンティズムの倫理と 資本主義の精神 (岩波文庫) |
つまり、プロテスタンティズムの禁欲性によって、資本主義が黙々とその財を積む「精神」が支えられている、ということだ。ヴェーバーのこの分析は、現代において多くの経済学者から敵視されつつ、否定しがたいものとして今に伝わっている。
このように歴史の中で醸成された「ストイシズム」は、資本主義を育成するための主要な栄養素となり、当然現代の資本主義においても重要な役割を果たしている。いや、それどころか、それ自体で新たな「市場」を形成してさえいる。
それは「ゲーム」である。
今やケータイで鮮やかなゲームができるご時世となり、電車に乗ればそこら中で小さな画面を見ながら親指を忙しく動かす人でいっぱいだ。ちょっと前はガラケーが主流だったから、長細く平たい物体を顔の正面に構えるその様子は、平安貴族の群れのようだった。実際あの「笏」というやつは、カンニングペーパーとして使用されたという話もある。今はスマホが主流になったが、薄暗い夜のバスの中で、小さめの位牌のようなスマホのバックライトに照らされ、表情を無くした顔の群れが浮かび上がる様などは、ちょっとしたホラーである。ほとんどの人はその表情がこわばり、目の焦点があっておらず、暗い照明の下でそんな顔面を煽り気味に照らした日にゃ、ふと視界に入ると(し、死相がでてる……)と、少しくぎょっとさせられてしまう。
ゲームをしてる人たちは非常に熱心であり、とても集中していて、目の前の難題を脇目もふらずに解決し、点数を積み上げ続けている。
一銭にもならないのに。
マージャンやパチンコならまだ「儲かる」可能性があるが、そうした射幸性もないのにそれに熱中してしまうのはなぜか。別にそれは今に始まったことではなく、第一次テレビゲーム・ブームのとき、パチンコ屋がガラガラになってばたばたつぶれたことがあった。ゲームを究極までクリアする人間が身近に現れるようになって、インベーダーブームは去り、パチンコ屋は息を吹き返した。
ここで「ゲーム」に求められているのは、「達成感」であって金ではない。何を成し遂げたわけでもないのに、何やら一仕事終えたような達成感を感じること、それがゲームには求められている。それさえあれば金が儲かるかどうかなどは些細な問題に過ぎず、むしろ金儲けなどは余計なことになったりもする。
こうしたストイシズムの淵源は、もはやプロテスタンティズムはおろかその他の歴史的な精神文化、例えば儒教とか武士道とか(折原浩は武士道にそれを求めようとしていたっけ)に訪ねることはできない。
むしろ逆に、そのストイシズムは「資本主義」の方からやってくる。
そこら中で人々がスマホでゲームをし、歩きスマホで駅の階段から落ちたりするのは、資本主義が社会の隅々まで行き渡った証左でもあるのだ。
ストイックではあっても、無表情にセックスしたり報酬を受け取る描写のある『ゴルゴ13』は、資本主義からその身の半分をはみ出させているように思う。さらに冒頭での予想が当たるなら、常人の欲望を超越したハイパースナイパーというアウラは消え去り、報酬の使い道を考える「ただのスナイパー」となって終るだろう。
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