何が問題かというと、「合法的に脱税した」ことが問題なわけで、「問題にならないことが問題だ」というオバマのセリフが的確にその核心を突いている。
しかし、本当の問題はそれだけじゃない。
こうしたタックス・ヘイブン(租税回避地)を利用した脱税は、個人のものもあるんだろうけど、企業によるものが圧倒的に多い。
ここに、企業の本質が国家と対立するものだという、アダム・スミスによる予言──企業の利益は国家の利益と合致しないので、法律の制定は企業家に口を挟ませてはならない──がいかに正しかったか、というのが具体的に現れている。
まずは『資本論』で行こう。
金ってのは、最初のうち
モノ→金→モノ
の順番で動く。金はあくまでモノとモノの仲介役である。現代でもそう考えている人は多い。
しかし、「モノ→金」と流れる際に「命がけの跳躍」(byマルクス)が必要なのに対し、「金→モノ」だとそんなバンジーなジャンプは必要ない。すると、だんだん世の中は、
金→モノ→金
という流れが支配的になってくる。モノは金を増やすための中継地点でしかなくなるわけ。小豆相場とかそういうものを想像すればいい。
そして金の部分がモノに比べてふくれあがるにつれ、
金→金→金
という具合に流れることで「資本」というやつが形成され、資本主義一丁上がりとなる。これ、『資本論』の骨子なんで憶えとくと便利。
さて、昔々その昔、「モノ→金→モノ」で経済ができていた時、「税」というやつはほとんどが「モノ」だった。日本だって江戸時代までは、年貢といえば「米」だったもんね。
そういう時代は、搾取の問題は別にして、民衆の利益(豊作になるとかそういうの)は国家の利益に直結していた。民衆が豊かになれば、それはすなわち国家が豊かになることだったので、なるべくなら民衆を豊かにしておくことを考える必要があった。
それが「金→モノ→金」となって、税も金納が当たり前になってくると、国家の方もモノを作る民衆よりも、金を動かす商人たちの方へ顔が向いてくるようになる。国家にとって、民衆の直接的な利益よりも、商人たちが金を儲けやすくする、ということの方が大事になってくる。
そして「金→金→金」となると、商人たち(資本家たち)にとって、国家というのは邪魔なものでしかなくなってくる。邪魔、と書くとアナーキストみたいだけど、自分たち以外の下々を管理するためには必要だ、くらいには思っている。
ここまでになるともう、金を手にする連中は税金なんて払うのなんか馬鹿らしくなっている。だって、国家なんか邪魔でしかないんだから。
パナマ文書の問題点は、アイスランドやイギリスの首相みたいにわかりやすい「個人」が関わっていると糾弾しやすいけど、企業が「節税(?)」のためにやっていたりすると、なんとなく追求の手が弱まってしまうことだ。
だって、もし自分の勤めている会社が関わっていたとしたら、せいぜい仕事後にチューハイ傾けながら「そんな金があんなら給料あげろよなー」と愚痴るくらいで、それ以上のことは何もしないでしょ?
大金持ちが個人で関っているパターンもあるだろうけど、それにしたってそこを利用するときは「企業」」の手を借りているはずだ。「金→金→金」と流れる段階になると、個人はほとんどその出番がなくなってしまう。
これは、昨今やたらとうるさい「法人税を減税しろ」という主張とも重なってくる。
そのため、デフレに苦しむ日本では、パナマ文書について大仰に取り上げることをしなくなるだろう。現に読売新聞はこんなことを言い出している。
…………
…………
えーっと、国民の三大義務ってなんだっけ?と言いたくなるが、まあ読売新聞はICIJのメンツには入ってないし(日本からは朝日と共同だけ)、いろいろと「おつきあい」があるのでこうなるわけだ。
パナマ文書の問題点は、高度資本主義社会において、もはや国家と資本家の蜜月なんて、幻想でしかなくなりつつあるんじゃないの?ということが、とってもくっきりはっきり可視化されていることにあるのだ。
でもあいかわらず、アベノミクスでは企業優遇を貫くんだろうねえ。首相自らが賃金アップを求めるとか猿芝居を続けながら。もう相手(企業)の気持ちが離れているのに、「お金をあげるから一緒にいて」と取りすがみたいにして。やれやれ。
アダム・スミス『国富論』(English Edition) |
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