固有名 |
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ブーバーの哲学のもっとも興味深い見解の一つは、次の点を示したことにある。すなわち、真理は内容でも、言葉によって要約されるものではないこと。したがって、真理はどんな主観性よりも主観的であること。しかし、この極度の主観性は、観念論的主体とは異なるものとして、どんな客体よりも「客体的なもの」への唯一の通路であること。どんな客体よりも「客体的なもの」とは主体が決して内包しえないものであり、全面的に他なるものであること。以上の点をブーバーの哲学は示したのだ。
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ブーバーの考えでは、関与は他性への通路なのだ。責任を喚起するもの、それが、外的で他なるものである。ブーバーの企ての本義は、〈私〉-〈きみ〉の関係のなかで〈きみ〉の根底的他性を維持すること、ほかならぬ結合のなかで〈きみ〉の根底的他性を維持することだった。この関係においては、〈私〉が〈きみ〉を客体として吸収することも、〈私〉が脱自的に〈きみ〉に吸収されることもない。〈私〉-〈きみ〉の関係は、関係を結びつつも絶対性を維持しつづけるものとの関係である。
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我と汝・対話 新装版 |
対話の究極の本質は、ブーバーが「抱擁」(Umfassung)と呼ぶ構造において明らかになるのだが、この構造が対話の数ある構造のなかでもっとも根源的なものであることはまちがいない。〈私〉-〈きみ〉においては、相互性は直接的に体験されるのであって単に知解されるのではない。〈きみ〉と関わる〈私〉は、〈きみ〉を介して自己と関わる。〈私〉は、〈私〉と関わる者として〈きみ〉と関わるのであり、それはあたかも。〈きみ〉の皮膚において〈私〉が自分にかすかに触れるに至かのようである。〈きみ〉を介しての自己への回帰。かかる回帰は感情移入(Einfühlung)という心理学的な現象からは区別されなければならない。感情移入にあっては、他人はわれを忘れることで他人の場に身をおくからだ。感情移入においては、自分のことを忘れるがゆえに、〈私〉は〈きみ〉にとっての〈きみ〉として現れることはない。これに対して、抱擁の激しさはまさに〈私〉の現実性のうちに存しているのだ。…………
ブーバーは生きた真理という表現を頻繁にもちいているが、おそらくこの表現はロマン派的な措辞ではなく、真なる観念によってよりはむしろ、本来的なものと非本来的なものによって規定されるような実存とかかわる表現なのであろう。
註:言うまでもないが、〈私〉とは「我 Ich」、〈きみ〉とは「汝 Du」
註:言うまでもないが、〈私〉とは「我 Ich」、〈きみ〉とは「汝 Du」
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