映画の感想はともかく、杉浦日向子の漫画について、ちょこっと書いてみたいと思う。(以下ネタバレなしなので、安心してお読み下さい)
百物語 (新潮文庫) |
杉浦日向子は、好んで怪談を描いた。
なぜ怪談を好むのか、というところに、杉浦日向子の眼に「江戸」という時代がどのように映じていたか、ということが顕れているように思う。
では「怪談」とは何か?
本宅のこことかここで触れたけれど、それは決して公には認められない、取りこぼされた小さな「歴史」である。
たとえそれが明らかな作り物であったとしても、一つのhistoryとしてそれは語られる。
『四谷怪談』にしろ『番町皿屋敷』にしろ、そのような構造を持っている。
杉浦日向子はそれをさらにまた小さく刻んで語る。
そうすることで、「江戸」という「大きな歴史が終わった世界」を表現しているのだ。
冷戦が終了した頃、『歴史の終わり』という本がベストセラーになった。まあ、期待通りに終ることはなかったわけだが、その時アレクサンドル・コジェーヴという哲学者の名も、ついでによく口にされた。(主に浅田彰)
コジェーヴは、将来戦争がなくなるとともに歴史は終焉を迎え、世界は「日本化」するだろう、と予言した。
「日本化」というのは、「江戸時代の日本化」ということである。そこではもう、新たなるパラダイムの転換は起こらず、皆互いの微小な差異を競うばかりとなる。
コジェーヴは「江戸時代」というものを、歴史が終焉した世界のモデルとした。ちなみにスーザン・ソンタグ は江戸を「白痴の楽園」と呼んだ。地口落ちだらけの江戸文化にがまんがならなかったのだ。
百日紅 (上) (ちくま文庫) |
そして、「江戸」という町の「怪談」という「小さな小さな歴史」を語るということは、そこで日本の歴史が一度終っている、ということを物語ることと同じなのだ。
『百日紅』においても、怪異譚はいくつも出てくるが、それはこの時代が「終りの後」の世界であることを示している。
百日紅 (下) (ちくま文庫) |
杉浦日向子にとっての江戸は「あの世」であり、「極楽浄土」であり、「歴史の彼岸」だったのだ。
福沢諭吉が「江戸は楽園であった」と回想し、流れ者のラフカディオ・ハーンが「怪談」を愛したのも、「時代の流れ」だの「歴史の必然」だのという「大きな歴史」を嫌悪してのことだった。
そのことはもう一つの代表作、『合葬』によく現れている。終ったはずの「大きな歴史」がまた動き出すとき、もはや怪異など出る幕もない。『合葬』は失われていく「江戸」という名の「終り」への鎮魂歌である。
日本の近代とは、「終りの終り」によって始まったのだ。
合葬 (ちくま文庫) |
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