「健康のためなら死ねる」というセリフは、ネットで検索してみたらタモリが起源ってことになってたけど、これ確かもはや名も知れぬマイナーバンドの歌にそういうフレーズがあった、はず。行きつけの呑み屋のおねえさんが、エアギターしながら歌ってくれたので憶えている。やっぱテレビの伝播力ってのはすごいね。オリジナルよりタモリ。
生まれてこのかた半世紀をすぎ、もはや余録を味わう身となったが、今もって「入院」というものを経験したことがない。これは幸運以外の何ものでもないだろう。
危うかったのは一昨年手首を複雑骨折したときで、最初にかかった医者は「全身麻酔して手術」と宣告してきたが、だだをこねて大病院に移ったら「ギブスとリハビリで様子を見ましょう」となった。いや実際手術してもおかしくない怪我だったのだが、応急処置が適切だったので助かった、らしい。らしい、というのは、その処置をしたのは自分だったからだ。
あの時、脚立の天辺から落ちて左手をつき、板バネが弾けたような音が頭に響いて、恐る恐る左手を見ると、積み木に布をかぶせたみたいになっていた。ありゃりゃ、こら折れとる、と独りごちて、腕の骨がなるべく平行になるようにして、手のひらの底辺を右手で握って、できるだけ水平に引っ張って出っ張りを戻した。学生時代少林寺拳法をやっていたとき、総本山の授業で教わったやり方である。あの時は稽古の後でやたら眠かったが、よく憶えていたもんだ。ただし、あんなに痛いとは思わなかったが。目が白眼にでんぐり返って鼻腔が破れそうなほどに開き、舌が裏返って喉が詰まりそうになった。
レントゲン写真を見ながら、二番目にかかった大きな病院の医者は言った。
「いやー、これは最初のお医者さんに感謝ですねえ。かなり上手にやってますね」
私は笑顔で応えた。
「あ、そうですか。今度会ったらお礼言っときますぅー」
もし「自分でやった」なんて言ったら、「やっぱり不安なので手術しましょう」となるに決まっている。股が裂けてもそれは言えない。
この時、自分自身について新たな「発見」があった。
それは、「自分が手術というものを恐怖している」ということ。
そして、「自分が基本的に医者というものを信用していない」ということである。
過労死しそうになりながらモンスター患者に愛想を振りまきつつ、折れそうになる心を『Dr.コトー診療所』で癒しているお医者様方には大変申し訳ないが、私はどうやら医者が嫌いらしい。
つまりは、人に体を「いじられる」のがどうも苦手なのだ。マッサージなども受けているときはいいのだが、あとで何とも言いようがなく気持ちが悪くなる。(ただし、妻を除く)
自分にこういうやっかいな部分があることは、薄々気づいてはいたけれど、はっきり思い知るとやはりため息をつきたくなる。
幼い頃学研「科学」と「学習」の「科学」の方だけ購読していた人間としては、もう少し自分自身は科学的であった欲しかった。
「人間にとって一番非科学的な存在は人間だ」とわかったようなことを書いてたくせに、自分のこととなるとおたつくばかりである。
とはいえ、「医療」というものはどこまで「科学」なのだろう。「医学」ではなく、「医療」の方だ。「医は仁術」というが、それは科学ではないだろう。
先日もこのような報道があった。
コレステロール値:「食事で変わらず」動脈硬化学会が声明
え、じゃあ今までの「コレステロールに気をつけましょう」な健康のあれこれはなんだったのか。
その前にもこんな記事をネットで見かけた。
104歳が毎日ドクターペッパー「忠告の医者はみんな亡くなったけどね」
「健康」はどこまで「科学」なのか?
というとこで次回に続きます。すんません。
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