21世紀の資本 |
とはいえ、訳が出ちゃったからには、得意顔で経済論をぶつのも恥ずかしい話なんで、内容の解説よりは、そこから改めていろいろ考えさせられたことについて述べていきたいと思う。
てか、今までいろいろ書いてきたけど、読んだ感じでは「だいたいあってる」んで、さらにそこから発展させてみたい。念のため、過去記事はこちら↓
【予告編】
さて、あいもかわらずピケティへの風当たりは強く、ヴォンフォン(台風19号)も負けそうなくらいだ。しかし、中にはこんなものもある。
2017年発行予定の10ポンド札 |
えーっと、アメリカがオースティンの小説に出てくるみたくはならないよ、やーいやーい、てな内容だ。
ジェーン・オースティンてのはイギリスを代表する作家で、このブログでもちょっと取り上げたことがある。
オースティンの小説ってのは、たいてい田舎でおこる恋愛のあれこれで、登場するのは当時の中産階級、「ジェントリー」てやつなんだけど、この時代の中産階級ってのはほとんど「労働」てやつをしないんだよね。そうした階級の状況がごく自然に、オースティンの小説には描かれている。
で、ピケティの本にもオースティンは取り上げられている。オースティンは十八世紀後半のイギリス社会の状況を、ある意味社会統計以上に克明に映し出している、なんてな感じ。
そんなわけで上掲の記事が書かれたんだと思うんだけど……
あー、言っちゃなんだが、ピケティはあんまりオースティン読んでないと思う。それから上の記事書いた人も。
ついでにピケティはバルザックの『ゴリオ爺さん』もとりあげてるけど、こっちも読んでないよね。バルザックって、マルクスが愛読してたけどさ。細かいこと言うと、「ゴリオ爺さんのパスタはジョブスのiPhoneだった」みたいに書いてるけど、ゴリオ爺さんはパスタっつーかバーミセリ作りの職人で、儲けたのは革命のどさくさで小麦の暴騰にのっかれたおかげだし。
で、オースティンが描き出す「身分sphere」てのは、経済よりも心の持ちようの方が前面になってるんで、もしアメリカがオースティンの小説みたくなっても、オースティンのような小説が生み出されることもないし、オースティンの小説に登場するような生活が送れるわけでもない。ダシにされてるオースティンこそいい面の皮のような。
まあ「本題はそっちじゃない」んだろうけど、「本題」について真正面からとりあげることはこれからもしないつもり。
じゃあ、日本の社会についてどう考えたらいいの?てことをたらたら書いていきたい。こんなことやってたら読者減りそうな気もするけど、ま、いーか。元々少ないし。
Capital in the Twenty-First Century
で、オースティンが描き出す「身分sphere」てのは、経済よりも心の持ちようの方が前面になってるんで、もしアメリカがオースティンの小説みたくなっても、オースティンのような小説が生み出されることもないし、オースティンの小説に登場するような生活が送れるわけでもない。ダシにされてるオースティンこそいい面の皮のような。
まあ「本題はそっちじゃない」んだろうけど、「本題」について真正面からとりあげることはこれからもしないつもり。
じゃあ、日本の社会についてどう考えたらいいの?てことをたらたら書いていきたい。こんなことやってたら読者減りそうな気もするけど、ま、いーか。元々少ないし。
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以下、続いて書かれたエントリーのリンク集。
読み進むにつれて触発され、「財産」が「世襲」される時に経済的な事象を越えた振る舞いをする、ということについて書こうと思いました。が、あまりに大きなテーマだったので途中で切り上げました。また勉強しなおして、取り組みたいと思います。
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