2019年5月25日土曜日

ユーリー・ノルシュテインに『外套』を完成させるために必要なこと

なぜ30年経っても完成しないのか?
『ユーリー・ノルシュテイン《外套》をつくる』予告編
 
 二十世紀からの積み残しで、最大といえば何だろう?
 春風亭昇太がまだ結婚できていないことだろうか?(結婚しましたねえ。おめでとう)
 幕末ギャグ漫画『風雲児たち』が完結してないことだろうか?
 1985年のプラザ合意が「第二の敗戦」と呼ばれたのに、その後さっぱり「戦後」が来なくて、何度も何度も「第二の敗戦」を繰り返していることだろうか?
 個人的には、それらのことなどはどうでもいい。
 私にとって、二十世紀からの最大の積み残しは、ユーリー・ノルシュテインが『外套』を完成させなかった、ということである。

 ユーリー・ノルシュテイン?誰それ。という人に簡単に説明すると、今やCG全盛のアニメーションを、切り紙でもって作っていたロシアの人である。いや、今も作ろうとしてはいるのだが。
話の話 Сказка сказок

  彼の代表作である『話の話』を知ったのは全くの偶然からだった。今はなき吉祥寺バウスシアターへ『エレンディラ』を観に行ったら、隣のスクリーンでたまたまやっていたのだ。予定を変えてそちらへ入った動機は、ただ入場料が五百円安かった、ということに過ぎない。
 以前にも書いたが、私は本来が泣き虫なので、ひどく感動しやすいたちである。だから、自分の感動というものを滅多に信用しない。精神の底の底、マリアナ海溝よりも深い真っ暗な部分が揺り動かされなければ、それを感動だとは認めない。そして、この『話の話』こそは、まさに光も差さぬ深海を揺らすような、そんな作品だったのだ。
話の話―
映像詩の世界 

   こんなアニメに心動かされるような人間は少なかろう、などと思っていたらさにあらず。先般亡くなった高畑勲はこのアニメについて本を書いていたし、漫画家の吉田戦車なんかは、このアニメをパロディにした漫画まで書いている。『タイヤ 』というタイトルで、あとがきには『話の話』を何十回と観た、ということを書いている。

吉田戦車、タイヤ 
(マガジンハウス文庫)
 そんなノルシュテインの新作だから、大勢の人が待ちわびている。もちろん、私も待っている。ノルシュテインの今度の新作は、ゴーゴリの『外套』だという。ロシア文学の原点じゃないか。これは楽しみだ。わくわく。
 そして、三十年という時が経ってしまった。
 ただ漫然と時が経ったというだけではない。その間未完成のフィルムの上映が何度もあったし、資金が足らないというので『話の話』を題材にした絵(サイン入り)の即売会が行われたこともあった。私もそれを買った。額装して今も寝室に飾っている。
 今か今かと待つ間に、こちらは娘が生まれてどたばたするうち成人してしまった。ちなみに、娘はこのアニメを全く好まない。
 一体どうなっているのか。
 金がないのか。
 人がいないのか。
 もうやる気がないのか。
 未完のままにした方が、楽に生活できるからか。

 で、先月『ユーリー・ノルシュテイン《外套》をつくる』というドキュメンタリー映画を観た。
 まずわかったのは、上に書いた低レベルな憶測は全部ハズレだということだ。
 映画の中で、ノルシュテインは「作ろうと思えばすぐ作れる」という。しかし、日本から訪れたドキュメンタリー製作者が「じゃあ、早く作ってくださいよ」と詰め寄っても、静かに首を振るばかりだ。
 理由を問い詰めても、はっきりと答えない。「社会情勢が」云々と言いづらそうにつぶやく。
 社会情勢?旧ソ連じゃあるまいし。いや、ノルシュテインは元々旧ソ連で製作していたのだし、自由化された今となっては何の支障もないはずじゃないか。と、普通には考える。
 結局謎は謎のまま、『外套』は未完のまま、ドキュメンタリーは終る。
 だが、観ているうちに、はっきりと言葉にされないが、なぜノルシュテインが『外套』を完成させようとしないのか、したくないのかが、伝わってきたように思う。

 なぜノルシュテインは『外套』を完成させないか。
 完成「できない」のではなく、「させない」のか。
 それは、『外套』を完成させることが、現在のロシア社会にとって良いことのように思われないからだろう。
 ノルシュテインは、今のロシア社会が嫌いなのだ。
 自由主義だが、オリガルヒのような財閥に支配され、民主主義といいながらプーチンの長期独裁が続き、にも関わらず大勢の人々がそれを受け入れ、あまつさえ喜んでいるという、現代のロシアの社会を認めたくないのだ。(ソ連崩壊後のロシアのゴタゴタについては、以前ここここのエントリーで触れているので参考までに)
 このような情勢の中で、一つの作品、それも自身のライフワークとも恃んでいるような作品を完成させ、世の中に出すということは、現在のロシア社会の有様を肯定してしまうことになりはしまいか。
 ましてや『外套』は、貧しい最底辺の役人の話だ。金儲けが上手い人間ばかりが尊敬を集める、権力を持つことが何の抵抗もなく是とされる、そんな社会の中へと『外套』を送り出して見せることは、酷く滑稽なことのように受け取られはしまいか。
 ノルシュテインはそのことを恐れているように見えた。
 では、なぜそれをはっきりと口にしないかといえば、それを言ったなら、現在創作をしている他のアーティストを否定することになりかねないからだろう。
 そして、このことはただノルシュテイン一人の問題とも思えない。なぜなら、ソ連崩壊以後ロシアにおいて文化的「事件」が生じなくなっているからだ。しいて挙げるなら、ボリショイで醜悪な襲撃事件が起きた、という程度である。

 では、ユーリー・ノルシュテインに『外套』を完成させるにはどうすればいいか。
 ロシア民衆が現政権に不満を抱き、政治的に覚醒することが求められる。
 簡単に言えば、『外套』完成には、プーチン失脚が必要だ、ということである。
『外套』完成を待ち侘びる一人として、これからはプーチンの顔を見かけるたび、呪いの念を送ることにしたい。
 
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