観終わった帰り道、妻がぼそりとつぶやいた。
「なんで今さらあれを映画にしなきゃなんなかったんだろ?」
なるほど。
妻の何気ないつぶやきにはウソが混ざっていない。
その答えになるかどうかはわからないが、あらためて『かぐや姫の物語』の感想を少し。
(以下ネタバレが含まれます)
結末は原作と同じく、かぐや姫は月に帰って行く。それはすなわち、かぐや姫は人の世では幸福になれなかった、ということを表している。
では、かぐや姫が幸福になれる手段がありえただろうか。
捨丸といっしょになっていればよかったのだろうか。それともせめて山から降りることなく、翁と媼といっしょにひっそりと暮らしていれば、ささやかな幸福を得られただろうか。
そのどちらでも、やはりかぐや姫は幸福にはならなかっただろう。
なぜなら、かぐや姫は「生きている」から。
「生きる」ということは、それそのものが「罪」なのだ。
かぐや姫は「生きたい」と願ったからこそ、天界を追放された。そこにいたままでは、己れの「罪」を自覚できないからだ。人の世に降りて「生きる」ことによって、初めてそれは「罪」として意識されることになる。つまり、人の世にあって自らの「罪」を自覚することが「罰」なのである。
おそらく、キャッチコピーの「姫の犯した罪と罰」は、そのような意味合いなのだ、と思う。
さて、ではなぜ「生きる」ことは罪なのか。
まず幸福というものは、いろんな説があるのを承知してはいるけれど、世界の中に自分を見出すことで得られるものだ。世界というのは、「生きる」ことの外側にあり、主体なり自己なりが生きるのをやめたとしても存在する諸々の時間である。 生きるものはそこに呑み込まれることはあっても、自己の存在をそこに見出そうとはしない。それは世界を拒絶する行為であり、世界に対する「罪」となる。
人は誰しも幸福になりたいと願うものだ。だから、この映画に感動しなくとも、その人たちは何の罪もない。
そして、この映画を観て感動した人たちへ。
あなた方は罪人(つみびと)である。
……といったところだが、自分が感動したかどうかはないしょにしておこう。こう見えても私はずるい大人なのだ。
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