この映画の主人公は、アドルフ・アイヒマンという、チビでハゲでメガネの男だ。映画の中の彼はモノクロのブラウン管の中で、虫歯にかかった齧歯類のような顔であたりを睥睨している。
もし彼が私の同僚であったら、どんなだっただろう。私にはひとつの確信がある。
彼は私を横目で一瞥するなり、こう口にするはずだ。
「きさまのような凡人は不要だ。さっさとここを立ち去れ」
アイヒマンならば、書類の数字の群れが蠕虫の巣に見えてくることもないだろう。メダカの学校に網を突っ込んで一匹もつかまえられないような私とは、土台ものが違うのだ。
およそ「優秀」な人間は、凡庸さと自分は無関係だと思っている。
SS時代のアイヒマンがアーレントの「悪の凡庸さ」云々について耳にしたとしても、「そんなこと自分とは無関係だ」と言い捨てるだろう。
凡人は常に非凡になりたいと願うものだし、できれば凡庸さとは無縁でありたいと考えている。そしてその凡庸な願いは、ちょっぴり「優秀」であればかなえることができる、と信じている。それはほとんど信仰であり、ときには信仰以上だったりする。
だから「優秀」な人たちは、自分が実は凡庸だということを暴かれることにこの上なく敏感だ。
そして、それこそが「優秀」な人たちの特定ヒミツなのだ。
全体主義の起原 1 ――反ユダヤ主義
全体主義の起原 2 ――帝国主義
全体主義の起原 3 ――全体主義
アーレントのいう「全体主義」とは、制度ではなく一種の「様式」である。
まったくの民主主義体制においても、「全体主義」は起こりうる。
「優秀」な官僚たちが力を持つ国においては特に。
0 件のコメント:
コメントを投稿