先日書いた通り、娘が受験でぐだぐだしている。
私が受験した頃とはいろんなことが変わっているが、試験いっぱつでこれからの「人生」というやつに、いらん手間を背負い込んだりとか、回り道をショートカットできたりとか、余計なオプションがくっついてくるってとこは変わりない。ぺらぺらの仙花紙がパソコンになっても、ぬり絵はぬり絵だ。
煮えつまった娘が口から毒ガスを噴射しても、そいつが家の空気を汚さぬように深呼吸するくらいのワザは持っている。なんたって、こっちにも充分に「おぼえがある」からだ。
さて、ここで自分が受験した頃のことをつらつら思い出してみるに、わが両親は今の私と同様な「共感」を持ち得ていたかどうか。そのあたり、かなり疑わしい。特に父親の方。
父親は自分の大学受験の思い出をよく聞かせてくれた。
まず、高校三年になったとたん、十二指腸潰瘍だかでほぼ一年入院したという。普通ならもういっぺん三年生をやり直すところだ。がしかし、腕試しのつもりで受けた大学に合格してしまった。しかも、そこらの名ばかり大学ではなく、一応旧帝国大学というやつだ。
受かった本人も驚いたが、ひっくり返ったのは高校の先生たちの方だった。なんせ、高校始まって以来の帝大合格者である。留年させたら合格がフイになるってんで緊急に会議を開き、大慌てで出席簿を改竄することになった。もちろん厳重な箝口令が敷かれたが、なぜかひと月と立たぬうちに村中に知れ渡っていた。田舎ってやだね。
そんなこんなで、父親は某地域のある一定以上の年齢の人たちにはとても有名になっているわけだが、そういえば祖父の葬儀で父が「息子です」と私を紹介するたび、近所の爺さん婆さんが一様に眼を丸くしたあと顔を見合わせ、微妙にうほうほうほと笑っていたのが思い出される。「へー、あやつの息子か」て感じだったのだろう。
さて、そんな父がスーパーな人生を送ったかというとさにあらず。ゼネコンで営業三昧だったわけで、とりたててどうということはない。まあ、たまたまころがりこんできた学歴のおかげで、実際の能力以上の生活を得ることはできたようだ。これは傍で見ていたものとしての実感である。
どうやら、戦後からある年代まで、大学がとても入りやすかったみたいだ。大学に行ける人間の生活レベルが限られていたことについて、戦前以上だったかと思われる。統計的に現れているわけではないが、身近に実例があるのでほぼ確信できる。
というような事情から、父親と近しい年代の学歴については、まったく信用していない私なのであったのだった。ドクター中松とかね。
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