2013年9月26日木曜日

そして誰も結婚しなくなったりしないと思うけどPart.2

 Part.1の続き、というわけでないけれど。

 前回に続いてまたヘロドトスの『歴史』。

     バビロニアの結婚制度ってのは、まったく資本主義にのっとったものであった。どのようなものかというと、年に一度、年頃の娘が広場に集められ、そこで器量の良い娘からセリにかけられるのだ。つまり、金持ちの貴族ほど美人を娶ることができる。そして不器量な娘や身体に障碍のある娘は逆に持参金がつけられる。なので貧乏な庶民はそうした娘と結婚するしかない。なお、この婚活のセリに本人の意向はもちろん、娘の親たちの思惑もなんら反映されることはない。
 なんという格差社会……
 ただこの風習は、ペルシャに占領されてバビロニア人が全員貧乏になって消滅した。バビロニアの娘は全員娼婦になるより生きる道がなくなったからだ。で、ヘロドトスはこの制度について「気が利いている」「すばらしい風習」とコメントしている。まあ、昔の人だからねえ。
 今だってたいして変わらないじゃん?などという、ひきつり笑顔の高校生レベルのことが言いたいわけじゃない。
  このような制度を抜き出してみたのは、果たして結婚に「愛」は必要なのか、というカントの疑問に対して、その答の一つになっているように思ったからだ。

カント全集〈11〉人倫の形而上学
 この『人倫の形而上学』によれば、カントの考える「結婚」とはこうである。

…………
 性共同体commercium sexualeとは、一人の人間が他の人間の性器と能力を相互に使用し合うことであり usus membrorum et facultatum sexualium alterius……
…………
 自然的な性共同体は、たんなる動物的自然本性に従うか(vega libido, venus volgivaga, fornicatio淫蕩、乱交、売春)、法則に従うかである。——法則に従う性共同体は婚姻matrimoniumである。
…………
 一方の性が他方の性器を自然的に使用することは享受であり、そのために一方は他方に身を委ねる。
…………
 一方の人格が他方の人格によってあたかも物件のように取得されながら、この他方を反対にまたもう一方が取得する、ということである。
…………
 ……人格に対する権利には、物件に対するようなしかたも同時に伴っている。その理由は、婚姻関係にある一方が逃げ出す、あるいは他の人の占有に入ることがあれば、他方はいつでも否応無しに、それを一つの物件と同じように、自分の支配力のもとに連れ戻す権限を認められている、ということにある。
…………
 
  えーっと、ツッコミどころ満載ってやつだね、こりゃ。とりあえず、カントの考えだとバビロニア人のやり方は「気が利いてる」ことになりそうだ。ヘーゲルは『自然法』で、「身の毛もよだつ、恥ずべきやりかた」とカントの婚姻論をなじっている。
 いやまあ、カントって生涯独身だったし、なんか結婚話もあったんだか無かったんだか、よくわからんし。(ラブレターもらったとかいう話もあるんだけどね)ご当人は上記のように結婚を考えてるから、「理性」による婚姻関係を願っていたようで、そりゃまあ無理ってもんだわな。
 一方ヘーゲルは、若い頃に愛人と子供を作っちゃったけど籍に入れず、四十一歳にしてハタチの嫁をもらって、これがまあ非のうちどころのないようなできた妻という、目の前にいたらハリセンでもって全力で後頭部を引っぱたきたくなるような、そんな結婚をしたのだ。
 とりあえず、「物件」とか「占有」とかで結婚を語っちゃうと、奴隷制度を究極のところで否定できなくなるんじゃないか、とヘーゲルは懸念するわけで、そりゃまあおっしゃる通り。

 しかし、この『人倫の形而上学』てのは、一筋縄でいかないように思う。
『純粋理性批判』に比べると、優しい言葉で普通に書かれててわかりやすいので、ついつい「カントはこう考えてるんだなー、ふーん」と素で飲み込んでしまいそうになる。いや、実際いろんな人が飲み込んでるけど、ちょっと違うように思うのだ。
 この本にはカントが意図してかどうかしらないが、いろんなものが含まれているように感じる。ほうれん草が嫌いな子供に、バターと生クリームをたっぷりいれたオムレツに微塵にしたほうれん草を混ぜ込んだのを、おかあさんが笑顔であーんさせるような、そんな感じが。

 次回に続く。今度はちゃんと続く。はず。

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