朝図書館に行くと、必ずコーヒーを飲んでいる。といっても喫茶コーナーに行くのではなく、一階フロアの自販機で買うのだ。紙コップに出てくるタイプで、一杯八十円也。リーズナブルだ。味だってスタバとかで飲むのとさして変わらない。
ところが、ここで一つ、個人的に困ったことが起きた。
ひと月ほど前のことだが、自販機のお釣りをとったら五十円あったのだ。おそらく、前に買った人がとり忘れたのだろう。まあいいか、といただいてしまったのだが、これが間違いの元だった……
それからというもの、自販機でコーヒーを買うたび、一瞬だが、ある「期待」が胸をよぎるようになってしまったのだ。またお釣りが多くないだろうか、という期待が……
自分のさもしさと、そんなさもしさにいちいち胸を痛める器の小ささに、我ながら辟易としてしまう。はあ。
しかし、この感じ、どこか懐かしさを覚えないでもない。
こうしたさもしい「期待」に、胸躍らせた時期があったのだ。
そう、バブルというやつだ。
まあ、ほとんど関係のない位置にいたにも関わらず、なぜかどこかで「おこぼれ」」にあずかれるような、そんな不確かで、冷静になってみればありもしない「期待」を抱いていたのだ。
ばかばかしくてため息も出ないが、おそらく今も似たような期待を抱いている人は大勢いて、どこまで実体があるのやらよくわからんカタカナの経済政策に胸躍らせているのだろう。
結局、経済云々の期待というのは、こういう「おこぼれ」への期待でしかないのだ。落ち着いて考えてみりゃ、そんなのそうそうあるわけないのに。
そんなわけで、図書館一階フロアの中途半端に広いスペースで、うまくもまずくもないコーヒーをすすりつつ、まいどまいどわきあがる心のゴミをさかさかかたづける私なのであった。
万札が 降って来ぬかと 秋の空
それでも「日本バブル」は終わらない: 残された2年間ですべてが変わる (一般書)
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