だいたい『人倫の形而上学』てのがタイトルからして不埒なもので、例えば「おふくろの味の科学的分析」だったら、そこでどんなに「おふくろの味」を「美味い!」「すばらしい!」と肯定していても「科学的分析」と言ってる時点で「なんか違う」だろ、というのと同じような感じだ。
そんなわけで最初に戻って、当時の結婚制度だって形而上学的に考えたら、ヘーゲルが言うように「身の毛もよだつ」ような姿が浮かび上がる。バビロニア人のことをどうこう言えない、てわけ。
カント全集〈11〉人倫の形而上学
さて、話はちょっと変わるけど、カントに関してロシアでちょっとした事件があった。
Russian shot in quarrel over Kant's philosophy
http://m.apnews.com/ap/db_268786/contentdetail.htm?contentguid=jXkDndmC
カントについて論争が白熱して銃で撃った、というのだ。
それについての詳しい情報がこちら。
Immanuel Kant shooting
http://www.theguardian.com/world/shortcuts/2013/sep/21/immanuel-kant-shooting-rubber-bullets-banned
画像のようなゴム・スタンガンで撃ったらしい。相手に命の別状は無し。とはいえ、この銃は至近距離で撃つと当たりどころが悪ければ死ぬ恐れがある。
このエピソードから何か哲学的なエピソードが引き出せそうな気もするが、つまんなくなりそうなのでやめ。
それより、二十代の男二人が論争して、銃で相手を撃ちたくなるほどの話ってなんだろう?やっぱあれかな、オナニーのことかな。カントはオナニー否定論者でもあり、やっぱり「身の毛もよだつ」表現で書き残している。
…………
情欲が不自然であると言われるのは、人間が現実の対象によってではなく、対象を想像することによって、それゆえ目的に反して対象を自分で作り上げて、情欲を覚えるような場合である。なぜなら、この場合の情欲は、自然の目的に反する欲望を、しかも、生命への愛という目的よりもさらにずっと重要な目的に反する欲望を引き起こすからである。
…………
しかし、自分の性的性質を上述のように不自然に使用すること、そして単に非合目的的に使用することさえ、自己自身に対する義務の毀損(しかも、その不自然な使用の場合は、最高度の毀損)であって、許しがたいものであることの合理的証明は、それほど容易ではない。
…………
自殺の場合には、生の重荷となる自己を気丈にも放棄することは少なくとも動物的刺激への 軟弱な専心ではなく、むしろ勇気を要するのであって、そこでは依然として自己自身の人格における人間性に対する尊敬の存する余地がある。これに対して情欲の場合には、自己を動物的傾向性にすっかり委ねてしまうのであって、人間は、享楽的ではあるが、その点でやはり同時に自然に反した物件、すなわち嘔吐感を催させる対象にされてしまい、そうして自己自身に対する尊敬もすべて奪われてしまうのである。
…………
しかし、よう言うわ。この件については「身の毛がよだつ」ので終了。
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