字面的には「現在の存在」という感じだが、ドイツ語のDaseinは(現に)ある、いる、来ている、出席している、という意味なんである。ハイデガーによる「現存在」は(現に)とかっこで括られているニュアンスの方に重きが置かれているので、翻訳では主に「現」存在になっている。ちなみに、ヘーゲルもカントも別な形でDseinを使用してはいるけど、現代においてはすっかりハイデガーの専売特許みたくなっている。そして、「存在」を「有」と訳す辻村公一他の全集版では、「現有」と訳されている。惜しい。何が惜しいのかは、また後ほど。
で、「現存在」というのは「存在Seinを問う存在者Seiende」で、つまるところ「人間」のことだ、というのが定説になっている。しかしハイデガーは「現存在」について、「人間」(もしくは主観とか意識)と名指すことを避けている、と。
そんなわけでかどうかわからんけど、多くの解説書は現存在について「人間」「人間だよー」「人間なんてララーラレレロロ♪」で済ませている。だってその方が楽だし、ページ数少なくてすむし。
じゃあ、実際のところハイデガーが『存在と時間』の中で、「現存在」についてどのように扱っているかというと、「これって『存在と時間』じゃなくて『現存在について』ってタイトルなんじゃねえの?」と思えるくらいに力が入っている。またタイトル詐欺である。(個人の感想です)
後半部、時間性について話が移っていくと、なんか途端に内容が「軽く」なってるように感じるくらいだ。まあ、人間にとって人間こそが最大の謎なのだ!と言ってしまえれば手っ取り早いんだけど、ハイデガーは『存在と時間』の中で従来の「人間」という単語をまったく使っていないというわけではなかったりするのだ。
ドイツ語には「人間」を意味する語はMan とMenschの二種類ある。
Manは英語と同じく、男性の意味もある。対義語の女性はFrau。ハイデガーはdas Manというよそよそしい表現に用いていて、「人」とか「ひと」とか「世間」とか訳されている。要するに「他人」と書いて「ひと」と読むようなもので、自分自身だって他人からすれば「他人」なんだから、世の中って「他人」でできてるよね、て話だ。
Menschは男も女もひっくるめた「人間」を意味する。personに近いかもしれない。ドイツ人はこの表現があることで、ドイツ語は英語やフランス語より中立的だと自負しているらしい。ハイデガーはMenschを、従来の古い意味での「人間」、というニュアンスで用いている。
じゃあやっぱり「現存在」は、ハイデガーが新たに提出した新時代の「人間」てことでいいんじゃないの?と思ってしまいたくなるが、そんな風にのほほんと構えていると、『形而上学入門』でもっていきなり輪島功一のかえる跳びみたいなパンチを食らわされる。
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現存在−しないこと、これが存在に対する最高の勝利である。
現存在とは、屈服と存在に対する暴力−行為の再爆発との絶え間なき苦境Notであり、しかもそれは、存在の全能が現存在に〇〇してver-gewaltigen、現存在をして存在が現象するための居所たらしめ、現存在をこのような居所として囲み支配し、貫き支配し、そうすることによってそれを存在の中で保蔵しておくという形においてである。
(ブロガーの判断で一部伏字にしてあります)
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えーっと、なんというか、vergewaltigenとか堂々と出てくる哲学とか、どうなんだ。こんなんブログに載せて、ドイツから変なアクセス増えたらどうしてくれんだよ。(気になる人は、本屋でこっそり独和辞典を引くことをお勧めします。ネットで検索しない方がいいかも)
「現存在」がただ「人間」てことで終了なら、こんな書き方はしないと思うんだけどねえ。
そんなわけで、次回は「現存在Dasein」についての「解釈」を。
今度こそ本当の本当に本番、のはず。
形而上学とは何か?
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