今のところ、ハイデガーと言えばフッサールの直弟子なんだから現象学だということになっていて、区別するためにフッサールについては「超越論的現象学」、ハイデガーの方は「解釈学的現象学」と呼ばれていたりする。
しかし、読んでみればわかるが、ハイデガーのそれは「現象学」というより「解釈学」の意味合いの方が強く、「現象学的解釈学」と呼んだ方がいいんじゃないかという意見があって、私もそれに賛成したいように思う。
では、「解釈学」ってどんなのだろう?
話はシュライエルマッヘルに遡ったり……はしない。面倒なので、ディルタイの話もリッケルトの話も抜き。
ざっくり説明すると、なんとなくわかってるつもりでいて、実はよくわかってないことについて、きちんと「解釈」することだ。
アウグスティヌスは「時間」について、「語らない時はよくわかっているのに、語ろうとするとわからなくなる」と上手いこと言ってるが、そういう事柄についてあえて語るのが、ハイデガーの解釈学である、と言い切ってしまおう。
元々解釈学hermeneutikはギリシア哲学を解釈するための学問だったけど(シュライエルマッヘルのはそれ)、ハイデガーはギリシアのソクラテス以前の哲学(まとめてフォアゾクラティカーと呼ばれる)を解釈しつつ、それ以後の「存在」、さらには「実存」について「解釈」することで、独自の哲学を築き上げた。
ハイデガーは『存在と時間』の中で、「解釈」を二通りに使い分けたり分けなかったりしている。
ドイツ語由来のAuslegung(アウスレーグング)と、ラテン語由来のInterpretation(インタープリテイション, インテルプレタツィオン)の二つを使用しているのだが、どちらも日本語訳では「解釈」と訳されている。一応、直観的に解釈する時はAuslegungで、論理的に解釈する時はInterpretationを使っているらしい。
「らしい」というのは、そこらへんがあまり厳密じゃないらしく、文章の流れで使い分けてるだけなんじゃないか、という「解釈」があるためだ。困ったもんだね。
とにかく、ハイデガーは「存在Sein」についてAuslegungしたりInterpretationしたりして、時間のうちに根を下ろしている「時間性(辻村訳だと「時性」)」を明らかにしようとするんだが、この時間性もZeitlichkeit(ツァイトリヒカイト、ドイツ語由来)とTemporalität(テンポラリテート、ラテン語由来)があって、それぞれ「現在」を意味するGegenwart(ゲーゲンヴァルト、ドイツ語由来)とPräsenz(プレゼンツ、ラテン語由来)に対応している。そして現存在Daseinを現象学的に還元するのがZeitlichkeitで、存在Seinの構成を究明するのがTemporalitätで、とか言ってもわけわかんないと思うけど、とりあえずわかんなくてもいいので気にしないで、「言葉そのものが意味するのは、本来どのようなものか」といことが大事だ、ということを押さえておきたい。
とにかく、こうしてリリアン編みのように紡ぎ出される「存在」の解釈について、どこに問題があるのか指摘しづらいために、今もって『存在と時間』は哲学における代表的な名著であり、ハイデガーは二〇世紀最大の哲学者のまんまなわけだ。
多くの人がハイデガーを批判した。直弟子のカール・レーヴィットにハンナ・アーレント、盟友だったカール・ヤスパース、フランクフルト学派のテオドール・アドルノ、社会学者ピエール・ブルデュー、そして最も大きく影響を受けながら最も先鋭的な批判者となったエマニュエル・レヴィナス。
多くの批判は有効たりえず、批判に対する批判も生まれる。レーヴィットによる批判(『ハイデガーの“転回Khere”』)を、ヤスパースは『ハイデガーとの対決』でこのように評している。
………………
1.ハイデガーの網の中でつかまえられているくせに、じたばたもがいている。無駄である。
2.ハイデガーの「内側」にいて、それで論争している。——しかしこれは背理である。なぜならそこでの論争などなしえないからである。——そこではただ、見、経験し、冒険することだけがなされうる。
3.ゲーテあるいはブルクハルトを引き合いに出して反対すること、これは、乱暴野蛮にも砲列を敷くことであり——それは批判ではなく、また性格付けでもなく、むしろ殺害であり、それでいて無駄な殺害である。なぜなら、それでは、ここで意図されている事柄、あるいは意図されているはずの事柄の中へと、深く踏み入ることがなされないからである。ところがまさにそのように深く踏み入って事柄を転回してこそ初めて批判になりうるのである。
………………
前回、「時間」についてハイデガーは「解釈」を自分が予定した通りに終わらせられていない、と書いた。じゃあ「時間」について「解釈」すればいいかというとそうでもなくて、ハイデガーの論を補填するだけだし、多分無理なのでそっちに迷い込むのは上策ではない。それこそハイデガーの仕掛けた「罠」みたいなもんで、「網の中でつかまえられている」と思う。ハイデガーもときどきそっちに誘導しようとしてるし。
では、「深く踏み入って事柄を転回」なんてのはどうすればいいんだろう?
ヤスパースだって、人のことを言う割にはできてないように見えるんだけど。
ハイデガーの「内側」に入るってのは、悪くないと思う。他の人たちはハイデガーの外側から攻撃しても、その内奥までは届かなかった。
ヤスパースの言う通り、「内側」では論争は必要ない。ただハイデガーの言うことを、ハイデガーがやるようにして、「解釈」してやればいい。
では、何をどう「解釈」するのか。
それは、「現存在」を解釈するのである。
というところで次回に続く。
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