ハイデガー― ドイツの生んだ巨匠 とその時代 (叢書・ウニベルシタス) |
戦時中のある日、カール・フォン・ヴァイゼッカーはハイデガーにこんなユダヤ小話を披露した。
一人の男がいつも呑み屋に入り浸っていた。訳を聞くと、
「うちのカミさんのせいなんだ!」
「で、おカミさんがどうしたんだ」
「カミさんは、しゃべり、しゃべり、しゃべりまくって……」
「一体何をしゃべるんだ?」
「あいつはそれを言わないんだ!」
これを聞いたハイデガーは、くすりともせず「そうしたものです」とコメントした。
ハイデガーは、およそ冗談とは縁のない人だった。
どのようなシチュエーションでヴァイゼッカーが話しかけたか知らないが、ヴァイゼッカーは普段から笑わないハイデガーを、このユダヤ小話でただ面白がらせようとしたのだろうか。
私には、ハイデガーの哲学を皮肉る意図があったように思える。
やたらとベラベラ喋るくせに、何を言っているのやらさっぱりだ、というわけである。
『存在と時間』を批判するのは至難の技だ。
20世紀末にハイデガー糾弾の流れを再開させたヴィクトル・ファリアスですら、その著書で『存在と時間』を直接に批判することについてはあいまいである。明確な批判として、『存在と時間』以前に発表した処女論文『アブラハム・ア・ザンクタ・クララ 1910年8月15日のその記念日の除幕式に寄せて』について取り上げているだけだ。アブラハム・ア・ザンクタ・クララは、アウグスチノ修道会士でドイツのバロック時代に活躍したカトリックの説教師である。彼は著作も多くし、その中には激烈な人種差別がてらいもなく書きつけられていた。
そんな差別主義者について最初の論文を書くくらいだから、『存在と時間』について解くまでもなく、ハイデガーはナチスに親和的なのだ、というわけである。
では『存在と時間』に対する批判が全くないかというと、そういうわけではない。
よく取り上げられるのは、後半部の第七四節「歴史性と根本体制」についてで、オリジナルテキストの384ページの辺りである。(詳しく読みたい人はリンク先をどうぞ)
ここにおいて初めて、「民族」という単語がハイデガーの哲学の外部ではなく、内部のものとして語られる。ここでは、現存在がともにあることこそを「共同体(共同存在Mitsein)」と呼ぶのだ、としている。
さらにその先では、現存在が先駆的に死をつかみとるなら、自らが「遺産」の相続者であることに気づく、としている。(こちらも詳しく知りたい人はリンク先をどうぞ)
確かに、後半部に至ってハイデガーは自分のファシスト的な部分を、臆面もなく露わにしてきたように見える。
そういえば、弟子のレーヴィットに自らの哲学とナチスとの親和性について語った時、
>自らの歴史性Geschichitlichkeitという概念が、自分の政治的「出動」の基礎だ
と言っている。
そして、この項目は「歴史性の根本体制」“Die Grundverfassung der Geshichitlichkeit” と題されている。
しかし、この部分について指摘したとしても、あくまで「部分」であって、ハイデガーの存在論そのものはまだ無傷のままのように見える。
と、ここでまたちゃぶ台をひっくり返してしまうわけだが、ハイデガーによるこの記述は、やはり無視できないものを含んでいる。(だからわざわざ別ページにリンクを貼ったのだ)それは、「民族」と関係なく、「歴史性」ともそれほどには関係することなしに、である。
そして、何度もちゃぶ台をひっくり返しているわけだが、この「ちゃぶ台ひっくり返し」はハイデガーもよくやらかしていることなのだ。講演などでも最初に壮麗な哲学を構築して語り、後半部でそれを跡かたなく破壊してみせる、というようなことをしてたそうだ。レーヴィットによれば、ハイデガーの講演を聴いてノイローゼになり、自殺した人もいたんだとか。
だいたいハイデガーの著作は、タイトルと中身がびみょーにずれていることが多い。『形而上学入門』は全然入門じゃないし、『現象学の根本問題』はあまり現象学について突っ込んでいるわけではない。タイトル詐欺?
ではこの『存在と時間』はどうだろうか?
どこまで「存在」と「時間」について語っているのか?
というところを次回に。
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