あれはそう、娘が小学校に上がったばかりのことだった。
ちょっと風邪をひいた娘を病院に連れて行った。そこの小児科の待合室には、大きなホワイトボードがあって、治療を待つ子供達が勝手に落書きして暇を潰せるようになっていた。
私が手持ち無沙汰に文庫本に目を落としていると、「パパ、パパ」と病気にしては元気な娘の呼び声が聞こえた。「見て見て!」
なんだ?、と顔を上げると、ホワイトボードいっぱいに幼い字でこう書かれてあった。
「ぱぱ そんざいってなに」
一点の曇りもない実話である。これだから子供というやつは油断ならない。
私は何と言って説明しただろう?
「えーと、イスがあるとか、机があるとか、いろんなものが『ある』ってことだよ」
なんとも残念な説明である。しかし、小学校に上がったばかりの子供に、「存在」について説明できる術があるだろうか?
いや、いい大人に向けてでも無理だろう。
ハイデガーだって失敗してるのに。
ハイデガー『存在と時間』の構築 (岩波現代文庫―学術) |
ハイデガーの『存在と時間』は未完の書である。現在では一応完結したことになっているが、当時はこれが「上巻」に当たるもので、のちに「下巻」が書かれる予定になっていた。結局ハイデガーは下巻を書くことなく、『存在と時間』から「上巻」の文字を削ってしまったのだ。
ハイデガーが「上巻」の部分で語ったのは、まず「存在」についてこれまでどのように語られてきたか、ということ。
現在それは失われており、取り戻すことが求められているので、「存在」について改めて考えてみようというわけである。
そして、存在から「時間」について、正しくは「時間性」について考えている。
さらに、下巻において「時間と存在」と時間を先に立たせた存在論を展開し、カントやアリストテレスの存在論の伝統を根本的に読み直すことを企てていた……らしい。
現在『存在と時間』として知られる上巻部分は、様々な事情から結構慌てて書かれており、後半部で述べられるはずのことも未消化のまま最後にねじ込まれたりしていて、あまりスッキリした終わり方をしていない。なまくら包丁で鯖をへし切りしたようで、切断面がぐずぐずになっている、というような感じだ。
つまりは、ハイデガーは後半部で自分が分析してきた存在論を「ちゃぶ台ひっくり返し」しようとしたら、思ったより重すぎてひっくり返らなかったのだ。
前回でも述べたように、ハイデガーはちょくちょくちゃぶ台をひっくり返す。もちろん『存在と時間』でもしょっちゅう小さいのをひっくり返していて、それがまたこの書物を一段と難解なものにしている。「さしあたりzunächst」とか「たいていzumeist」とか「さしあたりたいていはzunächst und zumeist」なんて単語が出てきたら、頭の中に「ちゃぶ台ひっくり返し警報」がキンコンキンコンキンコーン♫と響き渡るという具合だ。しかもこれ、百回近く出てくる。
現象学の根本問題 (原書) |
のちに全集に収録された際、ハイデガーはこの講義こそは未完に終わった「時間と存在」の「新たな仕上げ」だと自ら注釈している。
この講義は、当初の構想と逆に、カントやアリストテレスの存在論について読み直すことから始まっている。
押してもダメなら引いてみな、というか、こっちから持ち上げようとしても重かったので、反対に回って持ち上げてみよう、という魂胆である。
こんなものがあるんなら、ハイデガーの哲学はちゃんと完結しているんじゃないか、と思えたりもする訳だが、残念ながらこの講義もいいところで中断してしまっている。
ぐるっと回って反対側からひっくり返そうとしたが、やっぱり重くて無理だった、というわけだ。
世界の大思想 〈第28巻〉 ハイデッガー 有と時 (1967年) |
……………………
「『有と時』が未完成に終わったのは、『時と有』(注:言うまでもなく『時間と存在』のこと)の箇所に於ける『とき性(Temporalität)』の問題が『とき性』とされることに於いて一種の意味に化してしまい、『とき性』でなくなるからではないか」
……………………
という質問をぶつけた。するとハイデガーは
…………………
「そう簡単ではない。その問題は一九三六年以来、別の観点からずっと考えている」
…………………
と言葉を濁したそうだ。
多分これ、図星だったのだろう。辻村公一もそう思ったからあとがきにわざわざ書きつけたに違いない。
それなら、ハイデガーに成り代わって「時間」について「解釈」してやれば、ハイデガーの哲学を乗り越えられる、てことになるんじゃなかろうか?
そうは問屋がおろおろしないので、さらにまた次回に続くのだ。
モーツァルト『フィガロの結婚』から
伯爵夫人のアリア
ハイデガーはこれを好んだという
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