- (ほとんど引用なので、文字の色は黒のままです。イタリックになっているのは、参考図書では傍点がふられている部分です)
(緑の部分が問題の「民族 Volk」が登場する部分)
(細見和之訳)
先駆しつつ死を自らの内で強力なものとするならば、現存在は死にたいして自由でありつつ、自らの有限な自由の独自な威力Übermachtという姿で自分自身を理解する。その結果、もっぱら選択を選び取ったということにのみそのつど「存在する」この自由において、現存在は自分自身に委ねられているあり方の無力Ohnmachtを引受け、開示された状況のさまざまな偶然に対して洞察力を備えることになる。とはいえ、宿命的な現存在das Schicksalhafte Dasein が世界内存在として本質的に他者との共同存在Mitseinとして実存しているならば、その現存在の生起Geschehenは共同生起Mitgeschehenであり、運命Geschickと規定される。この言葉でわれわれが示しているのは共同体の生起、民族の生起das Geschechen der Gemeinschaft, des Volkesである。
この運命は個々の宿命einzelne, Schicksaleから合成されはしない。それは、相互存在Miteinnanderseinがいくつかの主体の共同出現として理解されえないのと同様である。同一の世界における相互存在という姿で、また特定の可能性への決意という姿で、さまざまな宿命die Schicksaleはあらかじめすでに導かれている。伝達Mitteilungにおいて、そして闘争Kampfにおいて、運命の力ははじめて自由になる。自らの「世代Generation」のうちにある、そして自らの「世代」とともにある現存在の宿命的な運命が、現存在の十全な本来的生起das vdle, eigentliche Geschehen des Daseinsを形づくっているのである。
現存在が先駆することで、死をみずからのなかで力強いものとする時、現存在は死にたいして開かれ自由でありながら、じぶんの有限的自由という固有の圧倒的な力においてみずからを理解する。その結果この有限的自由──それは選択をえらびとったということのうちに、そのつど「存在する」だけである──に会って、じぶんじしんに引きわたされているという無力さを引きうけ、開示された状況のさまざまな偶然に対して透察を有するにいたる。しかし命運をともなう現存在は、世界内存在として本質からして他者たちとの共同存在において実存するかぎり、現存在の生起は共生起であって、運命として規定される。運命によって私たちがしるしづけるのは、共同体の、つまり民族の生起なのである。運命は個々の命運からは合成されえない。それは、共同相互存在か複数の主体がともに現前することとしては把握されないのと同様である。同一の世界のうちで互いにともに存在することにあって、また特定の可能性に向かって決意していることにおいて命運のさまざまはあらかじめすでにみちびかれている。伝達と闘争のうちで、運命の力ははじめて自由となる。みずからの「世代」のうちでの、またそれと共にに現存在には命運的な運命がある。その運命が、現存在のかんぜんな本来的生起をかたちづくるのである。
(ブロガー注:文中に不自然なひらがなが多いが、タイポではなく、熊野訳がそうなっている)
現有が先駆しつつそれ自身の内に死をして威力を揮わしめるとき、現有は、死に向って自由に開かれつつ彼の有限な自由に属する自己自身の超力の内でそれ自身を理解し、この有限な自由、それはその都度ただ〈ーか他がという〉選択を選んだというこの内にのみ「有る」のであるが、その有限な自由の内で彼自身へ委ね渡されていることの無力を引受け、〈かくして〉開示された状況の諸々の偶然を諦観するに至る。併し、運命的な現有は世界の-内に-有ることとして本質上、他の人人と共にあることの内に実存している以上は、彼の経歴は共経歴であり歴運として規定されている。歴運ということを以って吾々が表示するのは、共同体の経歴であり、民族の経歴である。歴運がここの運命から集成されるのではないことは、共に相互にあることが、幾多の主観が一緒に集まって現れてくることとしては概念的に把握され得ないのと、同様である。諸々の個々の〈現有の〉運命は、同じ世界の内に共に相互に有ることと一定の諸可能性へ向って覚悟を決めて開かれて有ることとに於いて、初めから既に導かれているのである。その〈すなわち、ここの運命と運命との相互の〉伝達と闘争との内で、歴運の威力ははじめて自由に解き放たれるのである。彼の「世代」の内に於ける且つ彼の「世代」と共にする現有の運命的な歴運が、現有の充全な本来的経歴を、成すのである。
先駆けることで、自分の中に死が力強く漲ってくる。死をそのように漲らせるとき、現存在は、死に向かって自由に開かれ、自分の有限的な自由に宿る自ら自身の圧倒的な威力において自分を理解する。そうすることで、それぞれ選択を選び取ったことの中にのみ「在る」この自由において、現存在は、自ら自身に委ねられていることの無力を引き受け、また開示される状況のさまざまな偶然を鮮明に見きわめることになる。しかし、運命を蔵する現存在が、世界=内=存在として本質的に他者たちとの共同存在において実存している以上、現存在の歴史生起とはまたともに歴史生起することであり、命運である定めにある。この命運ということで、私たちは共同体、民族の歴史生起を指している。ここの運命がいくつか合わさればそれが命運となるのではない。相互共同存在を主観が幾つか集まっている状態として捉えるわけにはいかないのと同じである。
(訳注:青の部分について──二六節「他者の共同現存在と日常的な共同存在Das Mitdasein der Anderen und das alltägliche Mitsein 」を参照)
同じ世界の内で相互共同存在し、また一定の可能性に向けて果断に在る中で、それらの運命には初めからすでにともに歩む道連れがいる。ともに分かち合い闘う中で初めて、命運が秘める威力は自由に解き放たれる。自分の「世代」の中でこの「世代」とともにする現存在の運命的な命運をもって、現存在の本来的な歴史生起が余すところなく成立する。
(訳注:紫の部分について──ここは原著のいずれの版でもこの体裁である。「同じ世界の内で相互共同存在し、また一定の可能性に向けて果断に在る中で、それらの運命には初めからすでにともに歩む道連れがいる(Im Miteinandersein in derselben Welt und in der Entschlossenheit für bestimmte Möglichkeiten sind die Schichsale im vorhinein schon geleitet)」のうち、「それらの運命にはともに歩む道連れがいる」の部分の原文は...sind die Schicksale...geleitetであるが、この部分には、訳者(高田珠樹)が見る限り、従来の訳ではすべて「導かれている」、「導かれていた」等の訳語が当てられている。geleitetを動詞leiten(導く)の過去分詞と理解したものであるが、これでは前後の文脈と話がうまく繋がらない。このgeleitetは動詞geleiten(同行する、随行する)の過去分詞と捉えるべきであろう。運命には同じ道を行く仲間がいるというのである。こう読むと、「初めからすでに」という言葉も納得されるし、次の「ともに分かち合い闘う中で初めて、命運が秘める威力は自由に解き放たれる」の一文ともうまく繋がる。『存在と時間』の中で唯一、民族と共同体の運命としての命運について語るこの短い一節は、のちのハイデガーのナチズム加担を考える上でも決定的に重要な箇所だが、「運命たち」が誰かによって「導かれる」のか「道連れとともに歩む」のかで、命運の性格は大きく異なってくる。)
(細谷貞雄訳、この翻訳では「歴史性の根本構成」となっている)
先駆しつつおのれのうちに死の威力をたかめるとき、現存在は死にむかって打ちひらかれて自由になり、その有限的自由にこもるおのれの超力において自己を了解する。そして、そのつど選びをみずから選びとったことのなかにのみ《存在する》この有限的自由において、そのつど選びをみずから選びとったことのなかにのみ《存在する》この有限的自由において、現存在は、おのれ自身へ引きわたされていることの無力を引きうけ、そこに開示される状況のもろもろの偶然へむかって透察的になることができる。しかし、運命的な現存在は、世界=内=存在たるかぎり、本質上、ほかの人びととの共同存在において実存しているのであるから、その現存在の経歴は共同経歴であり、共同運命(Geschick)という性格をおびるのである。それはすなわち、共同体の運命的経歴、民族の経歴のことである。共同運命は、さまざまな個別的運命から合成されるものではない。このことは、相互存在が、いくつかの主観の集合的出現という意味のものではないのと同様である。個々人の運命は、同一の世界のうちでの相互存在において、そして特定の可能性への覚悟性において、はじめからすでにみちびかれていたのである。その共同運命にそなわる威力は、相互の伝達と戦いとのなかで、はじめて発揮される。おのれの《世代》のなかでの、かつおのれの《世代》と共にする現存在の運命的な共同経歴こそ、現存在の十全な本来的経歴をなすのである。
(原本)
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