2016年9月28日水曜日

ほんまでっか?ハイデッガー!【…の『存在と時間』第一部第二篇第五章第七四節「歴史性の根本体制」“Die Grundverfassung der Geshichitlichkeit”についての資料】



(ほとんど引用なので、文字の色は黒のままです。イタリックになっているのは、参考図書では傍点がふられている部分です)

(細見和之訳)
現存在は決意性において自分自身へと立ち帰るのだが、その決意性は、本来的な実存のその都度の事実的な可能性を、決意性が被投的決意性として引き受けている遺産のなかからaus dem Erbe 開示する。被投性へと決意して立ち帰ることには、それ自身のうちに、受け継がれてきた可能性を自分に伝承するということ Sichüberliefern が含まれている──たとえ必ずとも受け継がれてきたものとしてではないにしろ。[中略]死に対して自由な存在Freiseinのみが現存在に端的な目標を与え、実存をその有限性のなかへと突き入れる。実存のこの掴み取られた有限性は、気楽さ、軽々しさ、頭皮といった手近に差し出されている無限に多様な可能性から現存在を引きずり出しその宿命Schicksal の単純さのなかへともたらす。宿命ということでわれわれが示しているのは、本来的な決意のうちにある現存在の根源的な生起でありこの生起において現存在は、死に対して自由でありつつ、相続された、しかし同時に選び取られもした可能性という姿で、自分を自分自身に伝承するのである。

(熊野純彦訳、ところどころ漢字でも良い部分がひらがなになっていますが、それは原本のママなので)
決意性にあって現存在はじぶん自身へと立ちかえる。その決意性が開示するのは本来的に実存することにぞくする、そのときどきの事実的な可能性であり、それをしかも決意性が被投的な決意性として引きうけている遺産にもとづいて開示するのである。被投性へと決意して立ちかえることのうちには,受けつがれたさまざまな可能性を──必ずしも受けつがれた可能性としてではないにせよ──みずから伝承することが蔵されている。すべての「善きもの」は相続財産であり、「善さ」という性格は本来的実存を可能とすることのうちに存している。そうであるとすれば、決意性においてそのつど或る遺産の伝承が構成されるのである。現存在がより本来的に決意するほど、すなわち死への先駆におけるじぶんのもっとも固有なきわだった可能性にもとづいて、曖昧さなくみずからを理解するほどに、現存在の実存の可能性をえらびながら見いだすことは、それだけ一義的なものとなり、偶然的ではないものとなる。死へと先駆することによってのみ、偶然的で「暫定的」な可能性が駆逐されるのである。死に対して開かれていることがひとり、現存在に端的な目標を与え、実存をその有限性へと突き入れる。実存の掴みとられた有限性は、愉悦や軽率や回避などの、もっとも身近に誘いかけてくる、さまざまな可能性の際限もなく多様なあり方から現存在を引きもどして、現存在をその命運の単純さのうちへと連れもどす。本来的な決意性のうちには、現存在の根源的な生起がふくまれている。この生起を私たちは命運としるしづけるのだ。その生起のなかで現存在は死に向かって自由でありつつ、相続されたものでありながら選びとられた可能性にあって、みずからをじぶん自身に伝承するのである。
(ブロガー注:以下、訳書の注として「立ちかえるzurückkommem」「受けつがれたüberkommen」「伝承されたüberliefert」「引きうけるübernehmen」などの動詞のcounterpoint《対位法》は、英語でも日本語でも再現できないとされている)

(辻村公一、ハルトムート・ブナー訳)
 覚悟性、つまりその内で現有がそれ自身へと帰来するところの覚悟性は、本来的に実存することのその都度の事実的諸可能性を、その覚悟性が被投的覚悟性として引き受ける遺産、そういう遺産から開示する。覚悟を決めて被投性へ帰来することはそれ自身のうちに、伝来された諸可能性をそれ自身に伝承することを、蔵している、とはいえその際必ずしも、伝来された諸可能性を伝来された諸可能性として〈明らさまに承知しつつ〉それ自身に伝承するとは限らない。

(訳注:の部分の原本:Das entschlossene Zurückkommen auf die Geworfenheit birgt ein Sichüberliefern überkommener Möglichkeiten in sich, obzwar nicht notwendig als überkommener.
この文中でのein Sichüberliefernは三つの意味を持つ。
1. 最も表面に現れていることであり「上記の被投性への帰来が、それ自身に(与格)伝来された諸可能性を(対格)伝承すること」を意味する。
2. 「上記の被投性への帰来が、それ自身を(対格)伝来された諸可能性に(与格)伝承すること」を意味する。
3. 「以上の二つの仕方で、伝来された諸可能性がそれ自身を伝承することが、遂行されること」を意味する。

  3.は1.と2.の切合として遂行される。それゆえに「とはいえその際必ずしも、伝来された諸可能性を伝来された諸可能性として〈明らさまに承知しつつ〉それ自身に伝承するとは限らない」と言われるのである。この但し書きがなければ、著者は単なる伝統主義に堕してしまうであろう)
 (ブロガー注:かなりアクロバティックなハイデガー弁護。ちょっとびっくりさせられる)

一切の「善きもの」は、相続された遺産であり、然も「善さ」という性格が、本来的実存を可能にすることに損すると擦れば、その場合には、遺産の伝承は、その都度覚悟性のうちで構成されるのである。現有が覚悟を決めた決意すること、すなわち死の内への先駆に於て彼の最も自己的な卓抜な可能性から曖昧さを容れぬ仕方でそれ自身を理解すること、そのことが一層本来的になされるならば、彼の実存の可能性を選取しつつ見出だすことは、それだけ一層一義的にきっぱりしたこと、偶然的ならざることになる。ただ死の内への先駆のみが、如何なる偶然的にして「暫定的」な可能性をも追放する。死に向かって自由に開かれて有ることのみが、現有に端的な目標を与えるとともに、実存をその有限性の内へ衝き落とすのである。実存の掴み取られた有限性が、安逸や軽率や怯懦などの差し出されて来る身近な諸可能性、そういう諸可能性の際限もない多様性から、現有を奪い返すとともに、現有を彼の運命の単純性の内へ齎すのである。運命ということをもって吾々が表示するのは、本来的覚悟性のうちに存している現有の根源的経歴であり、つまり現有が死に向かって自由に開かれ遺産として相続された併しそれにも拘らず選び取られた或る可能性の内で、それ自身を彼自身に伝承的に引き渡すという経歴である。


(高田珠樹訳、この本では傍点ではなくボールドを使用しているので、そのままボールドにします
 現存在が自分自身に果断に立ち返って来る時、この果断さは、それが被投的な果断さである以上、自分が引き受けることになる遺産から、本来的に実存するそのつどの事実的なさまざまの可能性を開示することになる。被投性への果断に立ち返ることは、伝来の可能性を自らに引き渡すとともに、その可能性が自らを引き渡すという働きを内に秘めている。ただし、そこでこの可能性がことさらに伝来のものとして納得されているとは限らない。「善きもの」がすべて遺産であり、この「善さ」という性格が本来的な実存を可能とすることにあるのなら、果断さの中ではそのつどひとつの遺産の受け渡しが構成されることになる。現存在ができるだけ本来的に決断するなら、つまり死の内へ先駆ける中で紛れもなく自分に最も固有な格別の可能性から可能な限り自分を本来的に理解するなら、自分の実存の可能性を見つけて選ぶのも、その分いよいよ鮮明にして偶然を脱したものとなる。死の内へ先駆けることによってしか、偶然の行きずりに過ぎない、自分に「先走る」可能性をすべて追い払うことはできない。死を受け入れこれに向かって自由に開かれてあることだけが、現存在に端的な目標を与え、実存をその有限性の中へ突き入れるのである。現存在の身辺には、安逸、安直に走り惰弱に流れるための可能性がそれこそ我勝ちに押し寄せ、あの手この手で現存在を誘惑しているが、実存の有限性が掴み取られることによって、現存在はそういった可能性の果てしない氾濫からもぎ離され、唯一単純な自身の運命に引き入れられることになる。私たちが運命と呼ぶのは、本来的な果断さの中に含まれる現存在の根源的な生起のことであり、この中で現存在は死に向かって自由に開かれ、遺産として得たとはいえ、やはり自ら選び取った可能性において自ら自身を自分自身に伝え渡すのである。

(細谷貞雄訳)
 現存在は覚悟性においておのれ自身に立ち帰って来る。その覚悟性は、本来的実存のそのつどの事実的可能性を開示するそしてそれはこれらの可能性を、それが被投企的覚悟性としてみずから引き受ける遺産のなかから開示するのである。覚悟をもって被投性へ立ち帰って来ることのなかには、伝えられてきた可能性をみずから伝承するということが含まれている。

の部分についての訳注:ein Sichüberliefern überkommenner Möglichkeitenは「伝わってきたもろもろの可能性(生活様式)の自己伝承」と直訳されるであろう。この自己(sich)が一義的でないように思われる。以下の本文をたどっていくと、ハイデッガーは、(一)現存在が伝統的可能性を自己(現存在自身)へ伝承する、(二)現存在の覚悟性をつうじて、伝統的可能性が自己(伝統的可能性)を伝承する、(三)現存在が自己を伝統的可能性へ伝承(交付)する──というような、さまざまな読みかたの可能性を感じさせる書き方をしている。ここの訳文では、überkommener Möglichkeitenを目的二格に取り、sichを三格とみなした。(一)の読みに従ったわけである。

もっとも、そのさいそれらの可能性が伝来のものとして理解されている必要はない。すべての《善きもの》が相続財産であるとすれば、そしてそれの《善さ》が、本来的実存を可能にすることにあるのだとすれば、遺産の継承はそのつど覚悟性のなかで、成り立つものなのである。現存在の覚悟が本来的であればあるほど、すなわち、死への先駆において現存在がひとごとでない際立った可能性からおのれをまぎれもなく了解すればするほど、おのれの実存の可能性の選択的発見は、それだけ曖昧さと偶然性のすくないものになる。死への先駆のみが、あらゆる偶然的な《暫定的な》可能性を追いはらう。死へむかって開かれた自由のみが、現存在に端的な目標を与えて、実存をおのれの有限性のなかへ突きいれる。みずから選びとった実存の有限性は、さまざまに誘いかけてくる安楽さや気軽さや逃避などの手近な可能性の限りない群がりから現存在をひきずりだし、それを自己の運命(Schicksal)の単純さのなかへ連れこむ。ここで運命というのは、本来的覚悟性のなかにひそむ現存在の根源的経歴のことであって、そこで現存在は死へ向かって自由でありつつ、相続され、しかも自ら選びとった可能性における自己自身へと、おのれを伝承するのである。

の部分についての訳注:...
ihm selbst in einer ererbten, aber gleichwohl gewählten Möglichkeit überliefert.
ここでは、überliefernは目的語としてsich(現存在自身)をとっている。現存在がおのれを「遺産として伝えられ、しかもみずから選びとったひとつの可能性における自己自身」へと(すなわち、結局やはり、伝えられてきた可能性へと)überliefernする。したがって、ここでは「伝承する」という訳語はそぐわないであろう。むしろ、付託とか、委付とか、《……へ身を投ずる》とか、訳すべきであろうか。前注で挙げた(三)の読み方(現存在が自己を伝統的可能性へ伝承(交付)する)である。──本文で二行あとにみえる「おのれを伝承的に付託する覚悟性」(die sich überliefernde Entschlossenheit)もやはり同じ系統の表現である。


(原本)
Die Entschlossenheit, in der das Dasein auf sich selbst zurück- kommt, erschließt die jeweiligen faktischen Möglichkeiten eigentlichen Existierens aus dem Erbe, das sie als geworfene übernimmt. Das entschlossene Zurückkommen auf die Gewor- fenheit birgt ein Sichüberliefern überkommener Möglichkeiten in sich, obzwar nicht notwendig als überkommener. Wenn alles »Gute« Erbschaft ist und der Charakter der »Güte« in der Ermöglichung eigentlicher Existenz liegt, dann konstituiert sich in der Entschlossenheit je das Überliefern eines Erbes. Je eigentlicher sich das Dasein entschließt, das heißt unzweideutig aus seiner eigensten, ausgezeichneten Möglichkeit im Vorlaufen in den Tod sich versteht, um so eindeutiger und unzufälliger ist das wählende Finden der Möglichkeit seiner Existenz. Nur das Vorlaufen in den Tod treibt jede zufällige und »vorläufige« Möglichkeit aus. Nur das Freisein für den Tod gibt dem Dasein das Ziel schlechthin und stößt die Existenz in ihre Endlichkeit. Die ergriffene Endlichkeit der Existenz reißt aus der endlosen Mannigfaltigkeit der sich anbietenden nächsten Mög- lichkeiten des Behagens, Leichtnehmens, Sichdrückens zurück und bringt das Dasein in die Einfachheit seines Schicksals. Damit bezeichnen wir das in der eigentlichen Entschlossenheit liegende ursprüngliche Geschehen des Daseins, in dem es sich frei für den Tod ihm selbst in einer ererbten, aber gleichwohl gewählten Möglichkeit überliefert.

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