2016年9月12日月曜日

ほんまでっか?ハイデッガー!【…を解読するには東洋思想が鍵になったりしないけど翻訳すること自体が一種の「批判」になりうる編】

有と時 (ハイデッガー全集2)
『有と時』と書いて、「うととき」と読む。
 なんだか居眠りでもしてしまいそうだが、日本におけるハイデガーの『全集』では、『存在と時間』はこのように訳される。つまり、「有(う)」=存在、「時」=時間、ということなのだ。「時」の方はともかく、「有」については「なんじゃこりゃ」と思うのが普通の感覚だろう。
 なぜ「存在」ではなく、「有」なのか?

    これについて木田元は『正法眼藏』の第二十、「有時」の章に結びつけたのだろう、と推測している。私も初めて『正法眼藏』を読んだ時、ああここからきてるのか、と思った。
 しかし、そのことについて、訳者である辻村公一は次のように述べる。
…………
……ハイデッガーは決定的に「真で在る」すなわち「開示されて有る」を出発点として、そこから伝統的形而上学に於けるSeinの問題を思惟しなおそうとしているのである。……然るに「真で在る」という意味での「有る」は、例えば「空は青く有る」とか「私は喜ばしく有る」というように、判断のいわゆる「繫辞」すなわち「で有る」に言い現される。そのような「真で有る」は如何にしても「存在」ではない。かかる「真で有る」を拠点にして「有の意味一般」──少し後には「有の真性」と言い更められる──を明らかにすることがハイデッガーの根本の問いである。それ故、問いの出発点から言っても、目標から見ても、彼の謂うSeinは如何にしても「存在」とは訳され得ない。
……………
 かなり強い調子で「存在」じゃない!「有」だ!!と主張している。
 実際それはこの創文社版『全集』において一貫しており、ハイデガーの言うSeinは全て「有」となっている。(他からの引用などは「存在」になっているが)なので、「世界内存在」は「世界・内・有」に、「現存在」は「現有」と訳されている。
 このことについて木田元は、
……………
 この邦訳全集の訳語全体をそれで統制しようというのは暴挙というしかない。
……………
 と罵っている。
 実際この『全集』以外では、全て『存在と時間』とされているのだ。
 辻村公一は禅と関係なく「有」と訳したかのように語っているが、彼は禅の著名なテキストである『十牛図 』を『Der Ochs und sein Hirte(牛と牛飼い)』というタイトルでドイツ語に訳したこともあり、さらにまたこの『全集』においてハイデガーの用語に「性起(しょうき)」「現起(げんき)」などの仏教用語を当てはめてもいる。
 なにやらハイデガーが抹香臭くなってくるように思える。

人間の学としての倫理学 
(岩波文庫)
    しかしSeinを「有」としたのは、なにも辻村公一が初めてというわけではない。
 それより以前に和辻哲郎が『人間の学としての倫理学』においてすでに類似したことを述べている。
……………
 存在という言葉が現在Seinの同義語として用いられていることは周知の通りである。しかしかく用いられているにもかかわらず、存在という言葉の意味とSeinという言葉の意味とは相覆うものでない。
……………
……思惟に対立するSeinを問題とすることは「がある」を問題とすることである。
……………
 ところで、我々が「がある」に当てて用いている漢語は「有」である。……そこで、「がある」を取り扱うオントロギーは「有の学」あるいは「有論」に他ならないのである。一切の「がある」、すなわち一切の「有」に関して、その有り方を明らかにし、それによって哲学問題を解こうとするのが有論である。
……………
 なるほど、もしかすると根っこはこっちにあるのかもしれない。
 しかしながら、和辻哲郎のこの案については、前出の九鬼周造『講義 ハイデッガーの現象学的存在論 (九鬼周造全集 第十巻)』において、極めてやんわりといなされている。
 さらに和辻哲郎は『風土』においてもハイデガーに触れ、その哲学に対して批判を行っているのだが、全く的外れだと九鬼周造は言う。確かに稚拙な訳しかなかった戦前ならともかく、現代において翻訳を読んだものなら「ちょっとこれは」と思う内容である。

 とまあ、ここまで語っておいてまたちゃぶ台をひっくり返してしまうけど、実はSeinを「有」と訳することは、ハイデガーの哲学を解釈するにおいて、非常に重要な意味を持ってくると思う。(木田先生ごめんなさい!!だってそうなんだもん)
 和辻のハイデガー分析だって、まるっきりダメじゃなくて、かなり惜しいところをかすっている。いや、『風土』はやっぱりダメだけど、『倫理学』の方は結構いい。
 しかしだからといって、ハイデガー哲学が禅仏教と同質の響きを持つなどと、キューピー3分クッキングのようにお手軽な話ではない。むしろそれは逆だと思う。Seinを「有」と訳すことは、ハイデガーの哲学が東洋思想と全く関係がないことを明示するだろう。
 そのことについて書く前に、まずは『存在と時間』について語らねばならない。




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