木田元『最終講義』 |
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……しかし、彼が西洋哲学史見なおしの拠点にしている「存在」とか「存在了解」ということが、しばらくはさっぱり分かりませんでした。これは私に限らず、当時のハイデガー研究者(日本だけではなくドイツでも)が皆分かっていなかったようです。いや、いまでも分かっている人はほとんどいないのじゃないか。みんな、そのへんにくると、ハイデガーの言葉をお経のように繰りかえしてるだけのようです。
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と、木田元は『最終講義』で述べている。
もう最期だから言いたい放題である。
実際のところ、ハイデガーについての入門書やら解説書やらを読んだ人なら、「うん、そうそう」とうなづいてしまうだろう。おおよそが、ハイデガーの用語を使ってハイデガーの思想を拡大再生産してるだけなので、読んだ後余計に訳がわからなくなってしまうものが多いからだ。個人的な感想を垂れ流させてもらえるなら、今回エントリーを書くにあたって手にしたものは、ぜ…いや、ほとんどがそうだった。
こういう難解な書物について書くとき、わかったふりして書いてる人たちは「わからないのは、お前の頭が悪いんだろう」と逃げられるから、ある意味気楽でいいよなあと思ったりする。
存在と時間(全4冊セット) (岩波文庫) |
憎まれ口はさておき、ハイデガーの哲学はなぜ難解なのか? にもかかわらず、なぜ多くの人を魅了してきたのか? について押えておかなくてはなるまい。
難解さについては、まずそれが「ドイツ語」だということがある。
ドイツ語だから難解とか、んなわけあるか!ドイツ人はみんなドイツ語喋ってるやんけ!とニセ関西弁で自分にツッコンでしまうわけだが、ハイデガーはドイツ語でないと哲学はできない、とおっしゃってくださる。とくに、アングロ=サクソンの使う「英語」なんざ、ペッペッペッという感じだ。
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ハイデッガー ―乏しき時代の 思索者 |
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と高弟カール・レーヴィットが述べている。
また、ジョージ・スタイナー(アメリカ人)も、このように言う。
マルティン・ハイデガー (岩波現代文庫) |
ハイデガーの思想、ハイデガーが六五年余を費やして展開した存在論ないし「存在の思考」は、ドイツ語および多くの西洋語にある──ただし英語はそうではない(ボールドは筆者)
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実際、英訳はひどい有様で、なんせ現存在Daseinを訳せなくて、ドイツ語のまま使用してるくらいだ。同じアルファベット使ってるからって、そんな怠惰でいいのかと言いたくなる。(この問題は後半部で解決できると思う)英語で書かれたハイデガーの解説書も「ハイデガーの言葉をお経のように繰りかえしてるだけ」という印象を拭えない。
じゃあドイツ人はハイデガーを理解できているか、というとそんなことは全くないわけで、ハイデガーは言語の根元までさかのぼってその意味を探るため、ハイデガーのドイツ語は普段に使用されるドイツ語とはその有り様が異なっている。
ハイデガーのドイツ語は、あくまでギリシア語の後継たる言語の現れとしてのものである。
「哲学」はギリシアで生まれたのであり、「哲学」philosophiaという言葉を話すことはすなわちギリシア語を話している、ということなのだと主張する。
ハイデガーの講義録は、ドイツ語では不自然な語法になる部分が多いそうだ。しかしそんな微妙な部分も、ギリシア語に直すときちんと成り立つという。つまり、ハイデガーはギリシア語で考えつつドイツ語を使用しているのだ。
ドイツ語こそがギリシア語を継ぐ言語であって、ギリシア語をドイツ語で哲学するのが正しい、というわけである。
このあたりの「気分」はなんとも吞み込みづらいものがあるが、当時流行していたドイツ・ロマン主義では、ドイツがギリシア文明の後継であることはほぼ常識であった。おそらく、この辺りに根拠があったりするのだろう。
ハイデガーは「フランス人とても、哲学的に考える時はドイツ語を使う」などとをおっしゃっている。この人、ベルクソンからも影響受けてるはずなのに、なんでこう無茶を言うのか。しかし、『存在と時間』についてはろくなフランス語訳がなく、フランスの哲学者はハイデガーを読む時ドイツ語で読んでる、というのは確かなようだ。
じゃあ日本語は?
ハイデガーを日本語で読むのは、無駄な行為なのだろうか?
んなこたーない、ということを次回に。
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