言葉についての対話 ―日本人と問う人 とのあいだの (平凡社ライブラリー) |
日本人 おっしゃっていることの見事な一例が、国際的によく知られた映画『羅生門』です。ご覧になったかもしれません。
問う人 幸い観ました。ただ残念ながら一度だけです。観ていて、人を思わず不思議なところに引き入れる日本的世界の魅力を経験したという気がしました。
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ハイデガーの『言葉についての対話』の中の一節である。
この「対話」は一九五三年から四年の間に書かれ、しばらく未発表のままだった。黒澤明による映画『羅生門』は一九五〇年に作られ、ベネチア映画祭で金獅子賞をとって世界に名を知られたのがその翌年である。しかし、この「対話」の時期設定は一九五〇年頃とされている。
この哲学的対話は、問う人すなわちハイデガーと、ハイデガーの哲学についてよく知る日本人との対話、という形になっている。
日本人と呼ばれているのは、初版において手塚富雄となっているが、手塚自身がハイデガーの元を訪れたのは一九五四年であり、やはり食い違いがある。
ハイデガー、日記つけないタイプの人なんだな、と思ったりする。
羅生門 予告編
それはハイデガーが『存在と時間』で有名になるずっと以前からだった。ハイデガーは日本から来た留学生たちと積極的に交流していたのだ。伊藤吉之助などは、ハイデガーを家庭教師に雇っていたという。
というのも、第一次大戦が終わったばかりの一九一八年当時、敗戦国ドイツの経済はボロボロだったが、火事場泥棒的に勝利をかすめとった戦勝国日本は、ちょっとしたバブルに沸いていたのだ。
ハイデガーはやってきた裕福な日本人留学生に特別授業をすることで懐中を温かくし、また同時に彼らを通して東洋哲学について触れることになった。このことが、後に少なからぬ波紋を起こすことになる。
知の光を求めて― 一哲学者の歩んだ道 |
岡倉天心は『茶の本』を元々英語で書いており(基本的に英文で著作する人だった)、その中で岡倉は荘子をとりあげて、荘子の「処世」を“Being in The World"と英訳していた。そして、独訳を作ったシュタインドルフはこの言葉を“In der Welt Sein"というドイツ語にしたのだった。
In-der-Welt-sein、すなわち「世界・内・存在」である。それは『存在と時間』において、「現存在」と並ぶ重要な概念とされる。
帰国後にドイツ語で『存在と時間』を読んだ伊藤吉之助は、大いに憤慨したという。
「いやあ、世話にはなっだんだが、やづければよがったなあ」と故郷の庄内弁で述懐したそうな。
ちなみに、「処世」の独訳は、やはり現在でも“In der Welt Sein"になっている。
このエピソード、今道友信が『知の光を求めて──哲学者の歩んだ道』という自伝に書いているのだが、彼はハイデルベルク大での集中講義でこの話をし、ガーダマー(ハイデガーの弟子)と大喧嘩になったそうだ。
しかし、ハイデガーを研究した木田元は、このエピソードを知らなかったわけはないと思うが、著作では全く無視している。
「世界・内・存在」については、シェーラーの「世界開在性Weltoffenheit」の捉え直しである、という。ハイデガーはノートでWeltoffenheitと書いて『存在と時間』ではIn-der-Welt-seinと直しているが、一箇所だけWeltoffenheitのままになっている部分がある、と指摘している。
それは第一部第一編第五章、「A〈現〉の実存論的構成 A.Die exitenziale Konstituion des Da」の第二九節「情態性としての現-存在 Das Da-sein als Befindichkeit」の中の一節で、「情態性という気分づけられたありかたが、現存在の世界開放性を実論的に構成しているのである。Die Gestimmtheit der Befindlichkeit konstituiert existenzial die Weltoffenheit des Daseins.(熊野純彦訳では世界「開放」性と訳されている)」の部分である。確かに、ここで突然シェーラーの用語が登場し、それ以降は一度も触れられることがない。
さて、ではハイデガーの哲学は荘子のパクリなのだろうか?
全然そんなことはないと思う。言葉についてインスピレーションは得たかもしれないが、それだけで追求できることではない。ちょっと挙足取りくらいはできるかもしれないが。
ていうか、逆に荘子に失礼だろ、これ。(荘子についてはまたいずれ)
次回に続きます。
今道友信によるハイデガー
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