2014年5月11日日曜日

やっぱり「♫自由ってなんて不自由なんだろう」と歌ってしまうのだ

 娘がまだ小学一年生だった時、こんな質問をぶつけてきた。
「なんで子供は自由じゃないの!?」
 いろいろあって、かなりおかんむりのご様子。
 はあ、じーゆー、じゆうねえ、そんな単語どこで拾ってきたんだ。
「あー、それはね、子供には責任がないから」
「せきにん?」
「無責任かつ自由とかね、はた迷惑なだけだし。だから子供には自由がないの」
「責任て何」
「ちゃんと働くことかな。ま、他にもいろいろあるけど、とにかく子供には責任がない。だから自由もない。オーケー?」
「わかんない!!」


 一口に自由と言っても、人それぞれに少しづつズレがあって、上記の私と娘の会話ですらズレが見られる。まあ、日常的な基本概念にはありがちなことだけど。 

 そんなズレがとんでもない事態を惹き起こすことがある。
 スピノザの主著『神学・政治論』が発禁を食らったのだ。 ユダヤ教から破門されたのも大変だったけど、衝撃度はこちらの方が上だったんじゃなかろうか。
 なんたって、発禁処分の断を下したのは、スピノザが『神学・政治論』の中で「言論の自由を実現した」と讃えた市民政府自身だったのだ。
 普通なら「せっかくほめたのに、なんで逆をやるの?」と思うだろう。
 だがしかし、この『神学・政治論』を攻撃したのは、神学者以上にデカルト主義者たちだった。あれ?スピノザもデカルト主義者じゃなかったっけ?
    でもって、それに加えてスピノザは『神学・政治論』を、そこらへんの普通の人に読んで欲しくない、と書いている。どうせわかってもらえないから読まなくていいよ、とはっきり序文に記している。読んで欲しいのは「もっと自由に哲学しているはずの人々」だ、と。
 自由?スピノザの「自由」って何だろう。

 スピノザは言う。
 人々が口にする自由なんて、投げられて「空中にある石の自由だ」と。
 さらに『エチカ』にはこう書き記す。
…………
……精神の自由な決断で話をしたり黙っていたりその他いろいろなことを行うと信じている人は、目を開けたまま夢を見ている(『エチカ』第三部定理二備考)
…………
 なんだか前回リベットの実験が思い出される。
 ヴォルフ(今ではほぼ忘れられてるけど、カントの時代はこの人の哲学が主流をなしていた)なんかは、スピノザのこうした面について「無神論以上に危険だ」と批判する。
 ちょっとこんがらがってきたけど、要するに世間一般に流通している自由と、スピノザが理想とする「自由」は別物なんだ、と考えた方がとりあえずわかりやすくなるようだ。

 ここで冒頭に戻って、娘が口にする「自由になりたーい」という自由は、実は全然「自由」じゃないのだ。その叫びは脳の準備電位が妨げられたフラストレーションにすぎない。ガキの自由って、そういうもんだけどね。そんなんだから、その「準備電位」に従うことだけで自由になっていこうとすると、どんどん不自由になるほど自分が自由になったと錯覚してしまう、そんな状況が起こりうるのだ。
 そこで「責任」が重要になってくる。
 ハーバーマスもリベットの実験を批判するにあたって、「行為を開始した当事者であることの責任die verantwortliche Urheberschaft」という生活世界の日常的直感とは整合しないことを挙げ、この実験を決定論の証明根拠とは見なせない、とする。

 まあ、簡単な例を挙げれば、「言論の自由」をたてに、無責任にくだらないこと(あんまりふれたくないけど、ヘイトスピーチとかいうやつとかね)を大声でわめきたてるのは、実は自由でも何でもなくて、自らの思考や行動をどんどん不自由にしているだけなんだ。それこそ「空中に投げられた石の自由」で、「目をあけたまま見ている夢」みたいなものだ。それとは別次元で、言いたいわけでもないけど言わなくてはすまされないことを慎重に、自らの存在をかけた責任を持って口にすることが「自由」になるわけ。スピノザはそうした「自由」を求めて『神学・政治論』を著したのだ。
 ま、なかなか人間、「自由」にはなれないけどさ。


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