2014年5月8日木曜日

「殺しは禁じられている。だから殺人者は皆罰せられる。ただし、トランペットの音にのせ、多くを殺せば別である」(ヴォルテール)


 先月、アクト・オブ・キリングという映画を見た。本年度アカデミー賞確実と言われるドキュメンタリーである。エントリーのタイトルにした警句は、この映画の冒頭に掲げられたものだ。
 かなり特殊な映画で、虐殺を行った当事者に映画の撮影を持ちかけ、当時どのようにして反体制勢力(共産党員)をたくさんたくさん殺したか、実際に演じてもらったという内容になっている。
 その虐殺は一九六五年にインドネシアでのクーデターに伴い、インドネシア共産党もしくはその「協力者」と目された人たちが、一説には百万人(もちろん正確な数字ではなく、それ以上になる可能性もある)が殺害され、共産党は非合法政党とされて、それは今もそのままだ。
 この事件を契機にスハルトが実権を握り、デビ夫人は国を追われ、初代大統領スカルノは孤独のうちに死ぬこととなる。
 この虐殺に関わった人たちも、その組織も、現在のインドネシアにそのまま残っており、今でも変わらぬ地位と権力を握っている。追い出されたのはスハルトくらいか?
(以下、ややネタバレが含まれます)

 この映画において、主役のアンワル・コンゴは、得意げに殺害の方法を再現してみせる。彼だけでなく、「パンチャシラ青年団」という民兵組織を率いる男たちも、当時どのように「戦果」をあげたか愉快そうに語る。
 そこには罪悪感など、線香一本の煙ほどにも漂っていない。

 なぜこういう事態が起こるのか、というと、人間の持つ欲望ってものが、それだけでまったく独立的に動いてしまうからだ。もちろんそれだけではなくて、それから後もいろいろな要因がはたらくわけだが、きっかけてのはだいたいそういうこと。
 前回で少しふれた、鏡像段階における「鏡」にあたるものを壊してしまうことで、それは起こる。

エクリ 1 エクリ 2エクリ3  

「鏡」てのは、ちょっとしたきっかけがあれば簡単に壊れてしまう。西洋では「鏡を割る」のは不吉な行為だそうだが、「鏡」を壊すことは不吉どころではない現象を呼び起こす。
「鏡」に己を映すことで、人は自分が他から「欲望される」ものであることを知る。自らの「肉体」を認識する、というのはそういうことだ。「欲望される」ってのは、「殺される」かもしれないほど弱々しい、そういう自分の「肉体」を改めて識ることである。ただの知識ではなく、感覚として。
 そういうことをいちいち「鏡」で確認しなければならないほど、人間は自らの欲望に甘い。甘いというか、ともするとずるずる引きずられてしまう。

 アクト・オブ・キリングのラストで、主役のアンワルは殺される側を演ずるうち、「自分はとんでもないことをしたのか?」と気づく。
 そして、えづきながら退場する。
「鏡」というのは、このように「欲望される」ことがどういうことか、映し出して見せるものだ。
 そういう意味では、この映画自体がある種の観客への「鏡」になっているといえる。

 この映画はまた続編もあるとのことだ。今度はオーソドックスに被害者側からの視点によるものだという。


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