2014年2月5日水曜日

無欲と強欲は紙一重であるということ

 前回「主体なんて存在しないよ」と最後っぺをかましてしまったわけだけど、そんな程度のことは太古の昔、日本人がまだ竪穴式住居に住んでた頃から言われている。
 喝破したのはブッダという人で、それが仏教とヒンズー教(という呼称はこの当時なかったけど)をへだてる違いになっている。ヒンズー教は、梵天(ブラフマン・世界の真理)と自我(アートマン・意識の根源)を合一させることが最終目的となっており、仏教は自我を幻(マーヤー・人を幻惑するもの)として斥けた。
 まあ、日本にいるとこの辺の違いってのはよくわかんない。だって日本の仏教って割と「梵我一如」な教えを残してるんで、仏教学者から「むしろヒンズー教に近い」なんて言われちゃうくらいだから。
 それはともかく、自我とそれをもたらす「主体」はともに幻(マーヤー)であると、いみじくもお釈迦様はおっしゃったのだった。

 そんな千年以上も前に言われたことがなんで浸透してないか、てのはさておいて、主体があるとする場合の欲望もタチが悪いが、主体がないとする場合の欲望もまた別な意味でタチが悪い、ということをまず押さえておきたい。
 若者の○○離れというやつで、草食だのさとり世代(うわぁ…)だのと言われている昨今、若者の欲望が薄れているのかというとそんなことは全然ない。
 主体を幻として統合することに失敗すると、そのまんま拡散しないで何かの「拠り所」を見つけてくっついてしまう。
 それがまあ、家族だったり恋人だったり会社だったり、そして国家だったりする。
 そのとき、拠り所の欲望、国家なら国家の欲望をそのまま自分のものにしてしまうんだけど、ここで問題なのはそうしている「自分自身」は欲望が薄いため、無条件で自分を「正しい」と信じがちってことなんだ。
 だって、無欲は「正しい」って、幼き日に正直じいさんがここほれわんわんを読み聞かせられてから、ずーっと刷り込まれてるからね。
 こうした無欲が巨大な強欲に変化することは、カントなんかも誤解されがちな筆致で書き残しているけれど、「無欲は大欲に似たり」なんてのはむしろ悪い意味でもあるわけだ。

 と、ここまでで、全然終ってないけど無理矢理終らせる。すんません。
 なんだかわかったようなわからんような展開で申し訳ないけど、主体と欲望の関係において、主体が存在しようがしなかろうが、欲望はその在り様を変えるけれども、それは主体の側の問題だということがわかってもらえたかと思う。
 本来存在しないはずの主体と自我に、欲望である「他者」が常に関わってくる。それによって、あるはずのないものがあるかのように振る舞うのだ。

 最後に、ブッダは欲望の扱い方についてあれこれと説いたが、欲望そのものは否定していない。主体の変容は究極的には「死」であり、それを受け入れることが欲望、すなわち世界の力(力への意志とか生命跳躍エラン・ヴィタルとか「他者」とか) を表現することにつながるからだ。
 
エクリ 1 エクリ 2

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