昨日、南大沢で行われたアルケミストのフリーライブを聞いた。その名を知らずとも、積水ハウスのCMで歌声を耳にした人は多いはずだ。
妻と娘がファンなので、CDを通してその歌は耳にしていたが、生で聴くのは初めてだった。妻は、「あの歌声の伸びるとこを聞くと、眼が良くなるような気がする」と言う。ふむ、確かに。音が拡散しがちな屋外で、その歌声はくっきりと輪郭を保ち、くずれることはなかった。
さらに驚かされるのは、会場(とネット)から言葉を三つあげてもらい、それを使って即興で歌を作ってしまうことだ。しかもそれが、まるで前々から作られていたような完成度で展開される。歌だけではなく、伴奏までできあがっている。話にはきいていたが、実際目の当たりにしてあらためて感心させられた。
似たようなことは、落語でもって「三題噺」というのがあって、月の家円鏡(今は橘家圓蔵)が得意にしていた。客席から三つお題をもらって即興の噺に仕上げるのだが、相当のセンスがないと破綻してしまう。まだ笑点が始まってまもないころ、亡き小円遊(だったと思う)が失敗したのを見た憶えがある。
彼らはそれを、まったく肩の力を抜いて、やってしまうのだ。
この「肩の力が抜けている」ところが重要だ。そうでなければ、この即興が自分たちのテクニックやセンスを誇示するのではなく、あくまで観客との間のコミュニケーションを主眼としたものだ、ということが上手く伝わらないからだ。
こうしたことは、ちょっとでも技術を鼻にかけた空気があると、たちまちその場が白けてしまう。
さて、英語の文章を読んでいると、ときおりラテン語のことわざがとびこんでくるが、その中にこういうのがある。
Ars est celare artem アルス・エスト・ケラーレ・アルテム
直訳すると、「技術を隠すのが技量というもの」だが、 主に芸術関係の文章でお目にかかることが多い。「テクニックを隠すのが芸術だ」というような意味合いで用いられる。
日本の職人の間にも似たような言葉はあって、 「技倆が鼻につくうちは半人前」という。テレビでヒゲの生えた鑑定士が「いい仕事してますね〜」とわざわざ言うのは、ぱっと見ただけではそれがわからないからだ。
本当の「いい仕事」はその技術がまったく自然である、というのは洋の東西を問わない、ということだ。
ライブが始まる前、娘が満面の笑顔で私にこう言った。
「パパはきっと、アルケミストのこと好きになるよ!」
そう、娘の予言はよく当たるのだ。
旅立つ君に
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