やや過剰とも思える報道に触れて、思い出したのはドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟
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……五つになる小っちゃな女の子が両親に憎まれた話というのがある。その両親は『名誉ある官吏で、教養ある紳士淑女』なんだよ。僕はいま一度はっきり断言するが、多くの人間には一種特別な性質がある。
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ドストエフスキーはこうした「事件」について、だいたい実際にあったことを参考にするから(『罪と罰
つまり千葉で起きた事件のようなことは、特殊でも現代的でもないのだ。「考えられないくらい異常」などといきり立つ人は、考えられないくらい想像力が欠如しているということだ。
「子供を殺す」ことは、ただ昔にも似たようなことがあったということだけでなく、この社会の根源にある「流れ」を構成する要素の一つなのである。
ヘーゲル 法哲学講義 |
人類が最初に行った「殺人」は、聖書にある兄弟殺しではなく、子供を殺すことだったはずだからだ。
他の哺乳類に比べ、人間は子供である時期が異常なまでに長い。
母ネコは身の危険を感じると嬰児を噛み殺すが、子ネコの成長が早ければその分危険を避けることができる。人間は成長が遅いだけ、親から殺される危険のある期間が長くなる。例えば飢えと隣り合わせの環境においては、口減らしの危険は常に身近にあっただろう。
子供を殺すものは誰か?
それは母親である。
一番身近な存在こそが、一番可能性を持つし、一番動機があるからだ。
父親が側にいて家族を作るのは、母親の子殺しを止めるためであり、それこそが原初における「法」の根本なのだ、とヘーゲルは言う。
ここに読み取れるのは、それこそが事実だということではなく、ヨーロッパにおける「父」という存在が、それほどまでに大きくまた「正しい」とされている、ということである。
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我が子を食うサトゥルヌス(ゴヤ) Saturuno devorando a un hijo |
しかも、継父ではなく血が繋がった「父親」だ。犯人が継父である場合、世間はここまで長々と騒がない。
事件について人々は怒気を込めて問う。
「なぜ父親をほっておいたのか」
「なぜ児相は父親に子供を返したのか」
「なぜ学校は父親にアンケートを見せたのか」
答えは決まってる。相手が「父親」だからだ。
それも、実に父親らしい父親ぶりを見せる父親だったのだ。
そうした「父親」は子供を守るものだ、というのがこの社会を構成する通念である。そうでなければ、父親が父親として尊敬されることがなくなる。それは父親だけでなく、「尊敬」というもの、そのものの価値が毀損されることになる。そうなれば、児相の社会的価値を認める人が減ってしまうし、学校の先生は誰からも先生と呼ばれなくなる。そして、世の中に大勢いる、大して偉くもないのに「エライ人」のことを、誰も「エライ」と持ち上げなくなってしまう。
児相も学校もサボっていたわけではない。この日本の社会の中で、今も大切に守られている「タテ」の流れ、ジェンダー・ギャップ指数世界第110位という数字に如実に現われているその流れに、あらがうすべなく流されてしまっただけなのだ。
子供たちを殺すものは誰か。
母親ではない。
そして父親でもない。
子供たちを殺すのは、大して偉くもない「エライ人」を「エライ」と崇め奉ろうとする、そんな社会の流れである。
ヘーゲルが述べたことは、そういうことにしておいた方が社会の流れにとって都合がいいな、ということでしかない。
だいたい、群生する哺乳類において、子殺しをするのはたいていオスの方ではないか。
人間社会においては、酷薄な「流れ」に溺れるようにして、子殺しは行われる。そしてその「流れ」は一方で、美徳のように語られてしまっていて、誰もがその因果から目を背けている。
それは古代において、子供を生贄に捧げて共同体の結束をはかった時代と、大して変わりばえのしないことなのだ。
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