2016年4月19日火曜日

人はなぜ「繰り返す」のかもしくは勅使川原三郎『もう一回』について

 
Eyes Wide Shut - Waltz No.2, Jazz No.2 - Music Video


 同じことがまったく同じに現れることはありえない、とフロイトは指摘した。ありえないからこそ人はそれを願い、願いながら繰り返し、繰り返しても繰り返せないからさらに繰り返す。
 決して繰り返すことのできない中で同じことを繰り返すのは、ひとつの「祈り」に似ている。昔と同じことがまったく寸分たがわず繰り返されるのは奇跡に他ならない。奇跡を求めるのは「祈り」と呼んでいいだろう。
 たとえばまったく同じ曲を同じ楽譜にそって、同じ楽器で同じ奏者が演じたとしてもそこには差異が生じるし、それを録音して極上のオーディオ機器を使用したとしてもそれはまた違うものとなる。違うからこそ、オーディオマニアたちは奇跡を念じて機材を揃え、宗教的祭祀じみたこだわりによってささやかな音楽を「再生」するのだ。

エクリチュールと差異 
(叢書・ウニベルシタス)
    勅使川原三郎のアップデイトダンス『もう一回』を見た。繰り返し流れるショスタコーヴィチのワルツ第2番より 、どっかで聞いた曲だなという人はきっと『アイズ ワイド シャット』(キューブリックの遺作)を見たことがあるはずだ。(冒頭にリンクした動画)
 そこで「もう一回」と題されて現れるダンスは、繰り返すことの「ずれ」を先取りして、繰り返されるはずが繰り返されないことでの「もう一回」という動作によって成り立っていた。
 考えてみれば勅使川原三郎のダンスは、常にずれて行くことを先取りしてまたずらすことの連続によって表現されている。ジャック・デリダ風にいうなら「差延différance」というところか。デリダの差延は概念ではなく、ただ繰り返しつつずれていくことの非線形的な動線そのものについて語るものだ。
 通常の生活においてすら「自分は毎日毎日鉄板の上で焼かれている」などとため息をつくのではなく、繰り返しながら繰り返せないことの繰り返しがさらに繰り返せないことでずれをそこに生み出していく。
 生み出されつづけるずれの中で人は何度も生まれ、何度も老い、何度も病み、何度も死ぬのだ。
 まったく無自覚に。

 「もう一回」繰り返される音楽の中で「もう一回」繰り返されるダンスは、常にずれていくことを認め、その連続のうちに見るものを引き込んでゆく。なぜならその「もう一回」から、あらゆるものが生み出されるからだ。


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