ホドラー、emition |
もう一度これを貼ってしまおう。
今年始めころのエントリーであつかった、フェルディナント・ホドラーによる“emition"(英語だとemotion)である。
ホドラーは人が並び、ときに踊る姿によって「生命の律動」を描き出した。それは「良きリズム」(ユーリズミックス、またはオイリュトミー)と呼ばれた。
その下に「無」の画像を並べたのは、まるでこの絵から「無」の漢字が象形されたかのように見えるからだ。
そして、「無」という漢字は、「舞」という漢字と同じ根源をもつ。
…………
【無】もと象形。人の舞う形で、舞の初文。卜文に無を舞雩〈ぶう〉(雨乞いの祭)の字に用い、ときに雨に従う形に作る。
…………
白川静『字通』
問題は漢字学の泰斗白川静先生が、この漢字をこの意味で用いるのは「誤伝」としていることである。
しかし、あるリズムの中で身体を動かすこと、または身体を動かすことでリスムを作り出すことは、「からだ」というものをいったん無くすことにつながるように思う。
確かに数千年前の人間が、そのような形而上的な認識を身体の運動から引き出せたとは、さすがに考えづらい。
だが、リズムの中で本来の意味を失うこと、それは身体に限らないものでもあったようにも思う、のだが。
絶対零度と名付けられたダンスを見ながら、また「無」とダンス、「無」とリズムについて考えてみたくなった。
勅使川原三郎のダンスには、いろいろなものが「無」い
わかりやすさが「無」い。
ストーリーが「無」い。
セクシュアリティが「無」い。
そして身体が「無」い。
「無」い、というのは、そこに日常的に付与され、流通するところの「意味」というものが「無」い、ということだ。
舞台の上で、肉体は日常的に使用される意味を失い、また新たに組み替えられて動き出す。
その時、「無」は本来の意味を取り戻し、踊りだすのだ。
バウンド&アブソリュート・ゼロ ~勅使川原三郎のダンス世界 [DVD] |
0 件のコメント:
コメントを投稿