時は14世紀はじめ、北イタリアのとある修道院で、連続殺人事件が起きた━━というのが映画『薔薇の名前』のシチュエーションだ。主人公の修道士を演ずるのは元007のショーン・コネリー。この演技で一皮むけた、と淀川センセイが仰ってた。
主人公の名前は「バスカーヴィルのウィリアム」で、もろにシャーロック・ホームズを思い出させるネーミング。もちろん殺人事件の謎を解く役回り。ワトソン役は若い助手の修道士見習い。
これはウンベルト・エーコのベストセラー小説『薔薇の名前』が原作で、できればまあ、原作にふれて欲しいと思う。とっつきづらいけど映画より何倍も面白いんで。
薔薇の名前〈上〉 薔薇の名前〈下〉
(以下、ネタバレが含まれます)
物語の謎を解くキーは、失われたとされるアリストテレスの『喜劇論』(『詩学』の第二部とされる)となっている。犯人(?)がアリストテレスをむしゃむしゃと喰らったり、ラストで修道院の蔵書が盛大に燃えたりとか、古本好きの心臓に良くないお話だ。
さて、この話の舞台である十四世紀のヨーロッパで、アリストテレスがどう言う扱いを受けていたかというと、スコラ学の要としてキリスト教の真理を裏打ちする重要な哲学となっていた。
それ以前までは、アリストテレスと言えば、イスラム世界から伝承されたキリスト教の教えにそぐわない哲学、とされていた。特に『自然学』は四度にわたって教皇庁から禁令が出されている。なんたって、アリストテレスの『自然学』に沿って考えるなら、神が世界を作りたもうたなんてありえなーい、てことになっちゃうんだから。
四度も禁令が出た、ということは全然それが守られなかったということで、哲学が高度で理知的なものであるだけに、異端だの悪魔の書だのレッテルを貼ることもできず、いろいろごまかしながらアリストテレスを受け入れようとしていた。
ボナヴェントゥラは、都合の悪い部分を塗りつぶして教えるようにしていたし、哲学の真理と信仰の真理は別物だ、とご都合主義で言い訳する人たちもいた。(ラテン・アヴェロイスト)
それをとんでもない力技でまとめあげたのが、有名なトマス・アクィナスの『神学大全』である。近年日本語訳が完結したので、ラテン語で挫折しなくてもその全容にふれられるようになった。ぱちぱちぱち。
神學大全〈45〉第3部―第84問題‐第90問題
所謂「スコラ学」てのは、キリスト教側のアリストテレス受容の過程でのたうちまわった有様が、そのまま形になって現れたものだと言える。
まあ、そんなわけでダンテなんかもアリストテレスの徒となっていて、『神曲』では、アリストテレスが辺獄Limboと呼ばれる所でうろうろしている。辺獄てのはキリスト誕生以前の聖人なんかがいる所で、天国じゃないけど地獄でもない所ってこと。キリスト教の天国ってのは、洗礼受けてないと入れてくれないんだよね。ケチ。
こんなふうにすったもんだしながらもアリストテレスを受け入れた理由は、教会が世俗化し、「権力」というものと無縁ではいられなくなった、ということが一つある。
『薔薇の名前』の背景にも教皇庁のアヴィニヨン捕囚(教皇庁がローマからアヴィニヨンに無理矢理移された。一三〇九〜七七年)があり、このあとに教皇庁分裂と続いて、有名なコンクラーベが行われるようになる。
そうしてプラトン=アウグスティヌス的な流れから距離を置いたのが、後々の宗教改革と、それに続く啓蒙思想を生み出す素となったわけだ。
啓蒙思想ってのは、要するに「さらばアリストテレス」みたいなもんだったからね。
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