2019年4月4日木曜日

レプリカントは「忘れたくても思い出せない」夢を見るか?

(このエントリーは当然ネタバレがあります)


「心地良い体験を創作してやれば、感情も落ち着き、コントロールも楽になる」とタイレル博士は語る。
 「記憶、それは記憶のことか?」とデッカードは問う。
   日本がバブルに沸き立つ少し前、カルト的人気を博した映画『ブレードランナー』でのやりとりだ。
   設定としては、二〇一九年十一月のことで、あと半年とちょっとでその日付はやってくる。
   とはいえ、現実の二〇一九年は、高濃度の酸性雨が間断なく降り注ぐこともないし、それによって発生した電磁波が使用できる周波数を制限することもなく、国家が全ての電波を管理して無線での通信は公用以外不可能なわけでもない。みんな何の障害もなく、スマホいじりに忙しく、テレビは益体もないワイドショーを垂れ流す。それが、二〇一九年のリアルだ。
   さらに、人類は外宇宙を開発することもなく、タイレル・コーポレーションが人間以上に完璧な性能を持った生体アンドロイド「レプリカント」を開発しているわけでもない。
   レプリカントは、創造者ロジャー・タイレルをしのぐ頭脳を持ち、オリンピック・アスリートを超える身体能力を持ちながら、奴隷として外宇宙の危険な開発に使役される。
   そして彼らには、四年の寿命が設定されている。
   過酷な体験を通して、自我に目覚めたレプリカントが、脱走して地球へと帰還し、社会に潜り込もうとする。
   それを見つけ出して「処分」するのが、ブレードランナーと呼ばれる連中の任務だ。映画の主人公デッカードは元ブレードランナーで、後任が殺されたため呼び戻される。
    レプリカントを消すことは、「処刑 execution」ではなく、「処分 retirement」と呼ばれる。

ブレードランナー ファイナル・カット(字幕版)
  この映画がヒットした要因は、多くの若者たちが主人公のデッカードではなく、レプリカントに感情移入したことによる。「強力わかもと」や「ふたつでじゅ〜ぶんですよ」のおかげではない。
   いったいレプリカントのどこに共感したのか。
   単にアウトローでかっこいいだけなら、こうも長く語られ「伝説」となって続編まで作られたりはしない。
   四年の寿命か?
   それなら、二〇一九年に新制度でやってくる外国人労働者は、五年の年限で帰国を促されるが、そちらに情を寄せることになったりするのだろうか? 残念ながら、まず、ありえないだろう。
   ポイントは、冒頭に挙げたデッカードとタイレル博士の対話にある。
元のセリフは以下のようなものだ。

Tyrell: If we gift them the past we create a cushion or pillow for their emotion and consequently we can control them better.

Deckerd: Memories. You're talking about memories.

 最初、デッカードの言うMemoriesを「記憶」と書いたが、ニュアンスとしては「思い出」に近い。だが、このハードボイルドな未来SFに、肝心どころで「思い出」なんて甘やかな単語をあてては、せっかくの空気が台無しになってしまう。実際、ここはだいたい「記憶」とか「過去」とか訳されることが多いようだ。
   自我に目覚めたレプリカントは、精神的に不安定になる。時には、主人である人間に反抗する。
 しかし、偽の記憶を与えてやれば、それを落ち着かせることができる、とタイレル博士は説く。
 それを聞いて、デッカードは驚いたような声を上げる。なぜなら、かけがえのない思い出を人工的に作るというのは、人間の存在を揺るがすような行いだからだ。
 レプリカントという人間以上の性能をもった生体アンドロイドを作ることが「神への冒涜」であるとするなら、それに偽の「思い出」を注入することは「魂への冒涜」であるだろう。

ブレードランナー ファイナル・カット
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 そう、二十世紀後半、いわゆる「世紀末」を生きる若者たちの多くは、自らが「冒涜されている」という感覚を抱いていた。
 彼らの反抗心は時に、金属バットを振るって両親の頭蓋を叩き割るような事件となって現れた。
 映画の中でも、レプリカントは自らの生みの親であるタイレル博士を殺している。
 しかし、そうした「反抗」の矛先が、社会のシステムそのものに向けられることはない。現実もそうだったし、映画の中でも、もちろんそうなっている。
 タイレル博士を殺しはしたが、レプリカントは自らの存在の理不尽を社会にアピールすることなく、ブレードランナーに殺されていく。
 欲望の中で生み出された存在は、欲望へと回収される運命でしかないのだ。塵は、塵へと帰る。
 このように見てみると、オールドファンに続編の評判がイマイチだったわけがわかる。
『ブレードランナー2049』において、もはやレプリカントは「思い出」を求めることはなく、物語は巨大な社会システムへのよくある革命への予感として収斂してしまった。なんだか、「エイドリア〜ン」と叫んでいたロッキーが、だんだん国家を代表する英雄に変貌してしまったのと似ている。
Blade Runner 2049

 レプリカントは「奴隷」である。
 しかも、非常に高性能で生産性の高い奴隷だ。
 二〇一九年になって、映画とはまったく似ても似つかぬ現実がやってきたが、それでも現代を生きる人間とレプリカントの間には共通したものがある。
 それは「あらかじめ忘れら去られた存在であるにも関わらず、自らの忘却が禁じられている」ことである。



 次回に続きます。



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