2019年2月18日月曜日

子供たちを殺すものは誰か

   ついこの間まで世間は、父親が幼い娘を虐めぬいた末に殺した事件について語ることで、腹をつぶされた蛇のようにのたうっていた。
 やや過剰とも思える報道に触れて、思い出したのはドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』である。その中の有名な「大審問官」の部分で、イワンがとある事件について語っている。

………………
……五つになる小っちゃな女の子が両親に憎まれた話というのがある。その両親は『名誉ある官吏で、教養ある紳士淑女』なんだよ。僕はいま一度はっきり断言するが、多くの人間には一種特別な性質がある。それは子供の虐待だ。しかも、子供に限るのだ。他の有象無象に対するときは、もっとも冷酷な虐待者も、博愛心に富み、教養の豊かなヨーロッパ人でございといった顔をして、いやにいんぎんで謙遜な態度を示すけれど、そのくせ、子供をいじめることが大好きなんだ。(中略)で、その五つになる女の子を教養ある両親がありとあらゆる拷問にかけるのだ。自分でも何のためやらわからないで、ただむしょうに打つ、たたく、蹴る、しまいには、いたいけな子供の体が一面、紫色になってしまった。しかるに、やがてそれにもいや気がさしてきて、もっとひどい技巧を弄するようになった。というのは、実に寒々とした厳寒の季節に、その子を一晩じゅう便所の中へ閉じこめるのだ。それもただ、その子が夜なかに用便を教えなかったというだけの理由にすぎないのだ。(中略)まだ自分がどんな目にあわされているかも理解することができない、小っちゃな子供が、寒いくらい便所の中でいたいけな拳をかためながら、痙攣に引きむしられたような胸をたたいたり、邪気のないすなおな涙を流しながら、『神ちゃま』に助けを祈ったりするんだよ……(中山省三郎訳)
………………
 ドストエフスキーはこうした「事件」について、だいたい実際にあったことを参考にするから(『罪と罰』もそうだ)、この虐待事件も実話を元にしているのだろう。
 つまり千葉で起きた事件のようなことは、特殊でも現代的でもないのだ。「考えられないくらい異常」などといきり立つ人は、考えられないくらい想像力が欠如しているということだ。
「子供を殺す」ことは、ただ昔にも似たようなことがあったということだけでなく、この社会の根源にある「流れ」を構成する要素の一つなのである。


ヘーゲル 法哲学講義
    ヘーゲルによれば、人間社会の「法」の根源は「子殺しの禁止」にある。
 人類が最初に行った「殺人」は、聖書にある兄弟殺しではなく、子供を殺すことだったはずだからだ。
 他の哺乳類に比べ、人間は子供である時期が異常なまでに長い。
 母ネコは身の危険を感じると嬰児を噛み殺すが、子ネコの成長が早ければその分危険を避けることができる。人間は成長が遅いだけ、親から殺される危険のある期間が長くなる。例えば飢えと隣り合わせの環境においては、口減らしの危険は常に身近にあっただろう。
 子供を殺すものは誰か?
 それは母親である。
 一番身近な存在こそが、一番可能性を持つし、一番動機があるからだ。
 父親が側にいて家族を作るのは、母親の子殺しを止めるためであり、それこそが原初における「法」の根本なのだ、とヘーゲルは言う。
 ここに読み取れるのは、それこそが事実だということではなく、ヨーロッパにおける「父」という存在が、それほどまでに大きくまた「正しい」とされている、ということである。
我が子を食うサトゥルヌス(ゴヤ)
Saturuno devorando a un hijo
   だが、今回の事件の犯人は「父親」である。
 しかも、継父ではなく血が繋がった「父親」だ。犯人が継父である場合、世間はここまで長々と騒がない。
 事件について人々は怒気を込めて問う。
「なぜ父親をほっておいたのか」
「なぜ児相は父親に子供を返したのか」
「なぜ学校は父親にアンケートを見せたのか」
 答えは決まってる。相手が「父親」だからだ。
 それも、実に父親らしい父親ぶりを見せる父親だったのだ。
 そうした「父親」は子供を守るものだ、というのがこの社会を構成する通念である。そうでなければ、父親が父親として尊敬されることがなくなる。それは父親だけでなく、「尊敬」というもの、そのものの価値が毀損されることになる。そうなれば、児相の社会的価値を認める人が減ってしまうし、学校の先生は誰からも先生と呼ばれなくなる。そして、世の中に大勢いる、大して偉くもないのに「エライ人」のことを、誰も「エライ」と持ち上げなくなってしまう。
 児相も学校もサボっていたわけではない。この日本の社会の中で、今も大切に守られている「タテ」の流れ、ジェンダー・ギャップ指数世界第110位という数字に如実に現われているその流れに、あらがうすべなく流されてしまっただけなのだ。

 子供たちを殺すものは誰か。
 母親ではない。
 そして父親でもない。
 子供たちを殺すのは、大して偉くもない「エライ人」を「エライ」と崇め奉ろうとする、そんな社会の流れである。
 ヘーゲルが述べたことは、そういうことにしておいた方が社会の流れにとって都合がいいな、ということでしかない。
 だいたい、群生する哺乳類において、子殺しをするのはたいていオスの方ではないか。
 人間社会においては、酷薄な「流れ」に溺れるようにして、子殺しは行われる。そしてその「流れ」は一方で、美徳のように語られてしまっていて、誰もがその因果から目を背けている。
 それは古代において、子供を生贄に捧げて共同体の結束をはかった時代と、大して変わりばえのしないことなのだ。

Blood On The Altar (Human Sacrifice Documentary) 


  

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