2017年2月20日月曜日

ほんまでっか?ハイデッガー!【…の「気づかい」ってのは何なんだろう編】

 誰もがそれを経験しているのに、それを直に表す単語がなくて、「あるよねー」「うん、あるある!」と『100人に聞きました』(古)状態になってしまう、そんな経験があると思う。うん、あるある。

 別な国にはそれを表す言葉がある場合、それは逐語的には翻訳不能となるので、その意味について解説しなくてはならなくなる。
 例えば、ドイツ語のSchadenfreudeを一言で表す単語は日本語にはない。意味は「他人の不幸を喜ぶ気持ち」である。そういう気持ちが日本人にないわけではないが、なぜかそれを表す言葉が一つの単語としては存在しない。その言葉が特有の文化や風習に属するものではなく、普遍的に存在する事象を表すものであっても、そうした「翻訳不能」(逐語的に)はちょくちょく見受けられる。
 といったところを踏まえた上で、現存在の基礎の基礎についてハイデガーがどう提示しているか見てみよう。
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第六章 現存在の存在としての気づかい
Sechstes Kapitel  Die Sorge als Sein des Daseins

第三九節 現存在の構造全体の根源的な全体性への問い
§39 Die Frage nach der ursprünglichen Ganzheit des Strukturganzen des Daseins

第四〇節 現存在のきわだった開示性である、不安という根本的情態性
§40 Die Grundbefindlichkeit der Angst als eine ausgezeichnete Erschlossenheit des Daseins

第四一節 気づかいとしての現存在の存在
§41 Das Sein des Daseins als Sorge

第四二節 現存在の前存在論的自己解釈にもとづいて、気づかいとしての現存在の実存論的解釈を確証すること
§42 Die Bewährung der existenzialen Interpretation des Daseins als Sorge aus der vorontologischen Selbstauslegung des Daseins

第四三節 現存在、世界性、および実在性
§43 Dasein, Weltlichkeit und Realität

第四四節 現存在、開示性、および真理
§44 Dasein, Erschlossenheit und Wahrheit

…………………
 この第六章において、多くの解説書が「現存在=人間」で済ましている現存在について、ハイデガーはこれでもかとばかりに長々と説明している。『存在と時間』の中でもかなり力の入った部分と言える。
 ここで述べられていることのメインは、現存在の存在の元であり章のタイトルにもあるSorge というものについてである。引用した熊野訳では「気づかい」と訳されているが、他の訳では「関心」などとされている。英訳だと独英辞典にもある通りにcareであり、ニュアンスとしては熊野訳の「気づかい」に近い。ただ、カタカナで「ケア」とすると、普段に使用されている日本語としてのニュアンスとはズレが出てくるようだ。
 しかし、辞書とにらめっこしている限りは、どんな言葉に訳そうともSorge のニュアンスにはとどかない。なぜなら、ハイデガーはここでこのSorge について、人類創生の神話にその淵源を求めているからだ。
 それはヒューギヌスによるクーラCuraの神話に見出されてある。ハイデガーはこれをブールダッハの「ファウストと気づかい」という論文から知ったという。ゲーテはこの神話を作り変えてファウスト第二部に充てている。Curaはラテン語であり、やはり「気づかい」の意味を持つ。
 ここは『存在と時間』からではなく、ヒューギヌス『ギリシャ神話集』から引用してみよう。

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ヒューギヌス『ギリシャ神話集』
Gaius Julius Hyginus “Fabulae”

220 クーラ

 ある川を渡っている時、クーラは粘土状の泥をみつけ、思いに耽りつつそれを取り上げ、こねて人間を作り始めた。自分は一体何を作ったのかと彼女が考えていると、ユッピテル(ローマ神話の主神。ゼウスに対応)が現れた。像に生命を与えるよう、クーラが願うと、ユッピテルはすぐにその願いをかなえた。
 クーラが自分の名前をその像に与えようとすると、ユッピテルはこれを禁じ、自分の名前がその像に与えられるべきであるといった。名前のことでクーラとユッピテルがいい争っていると、テルルス(大地の女神、ガイアに対応)が立ち上がり、自分が体を提供したのであるから、自分の名前が付けられるべきであるといった。
 彼らはサートゥルヌス(クロノスに対応)を審判にした。サートゥルヌスは彼らを公正に裁いたようにみえる。「汝ユッピテルは生命を与えたのだから、[欠文]体を受け取るように。クーラは初めて彼を作ったのだから、彼が生きているあいだはクーラが彼を所有するように。しかし彼の名前をめぐって論争があるのであるから、彼をホモー[人間、homo]とよべばよい。何となれば彼はフムス[土、humus]から作られたと思われるからである」



CCXX Cura
 Cura cum quendam fluvium transiret, vidit cretosum lutum; sastalit cogitabunda et coepit figere[hominem]. dum deliberat secum quidnam fecisset, intervenit Iovis. rogai eum cura ut ei daret spiritum, quod facile ab Iove impetravit. cui cum vellet Cura nomen suum imponere, Iovis prohibuit suumque nomen ei dandum esse suumque nomen ei imponi debere dicebat, quandoquidem corpusu suum praebuisset. sumpserunt Saturnum iudicem. quibus Saturnus pus possideat; sed quoniam de nomine eius controversia est, home vocetur quoniam ex humo videtur esse factus.
……………………
 他のギリシャ神話とはかなり毛色が違う物語だ。おそらく、これは元々の「ローマ神話」であって、ギリシャ神話が翻案されたものではないのだろう。
 クーラは「気づかい」という人間の持つ心情が神格化され、人間より先に存在して人間を作ったのだとされている。
 土humusから作られたので人間homoと名付けられた。ここからhumanやhomeなども「土humus」が語源であることが知れる。
 それは、前存在論的な、存在なんかが意識される以前の「土地」である。
 人間が土くれから創られるという神話は珍しくないが、その名の由来を「土(地)」とするのは、人間の存在についてよりいっそうのヒントを与えてくれる、というわけだ。
 
 さて、この章でハイデガーは、現存在についての元を探ってクーラにたどり着いたわけだが、なぜそのように元を探る必要があったのかというと、人間を人間たらしめる何かが、個々の人間を超越して存在することを示すためである。それは「時間」へと視座を移す過程において、絶対に必要なステップであったのだ。
 しかし、ここで問題になるのは、Sorgeを「気づかい」なり「関心」なりと訳してしまうと、そこから「時間」的なニュアンスが消えてしまう、ということだ。いや、Sorgeそのものにもそのニュアンスは薄いが、ハイデガーはSorgeのラテン語である Curaが登場する「神話」を見出したことで、それを補うことができるとしたわけだ。
 そのため、細谷貞雄訳ではSorgeを「関心」と訳しつつ、Curaを「憂い」と訳している。そして神話を記したあとで「憂い(関心)」と書いてSorgeとCuraを結びつけようとしてはいるが、苦肉の策というか、かなり無理しているように感じられる。ちなみに、SorgeにもCuraにも「心配」「憂慮」「不安」の意味がある。だがハイデガーは「不安」に類する心性についてはAngstの語を充てており、また「心配とか呑気とかいうような存在的意味の存在傾向は、すべて関心の意義から排除しておかなくてはならない」としているのだ。熊野訳では神話の部分の「気づかい」に「クーラ」と振り仮名を添えて事足れりとしているが、そこに「時間」的なニュアンスを見いだすのは少しく無理がある。
 やはり、ハイデガーの哲学は、ご本人のおっしゃる通り、ドイツ語以外に訳すのは無理なのだろうか?
 などと結論を急いだりせず、もう少しSorgeについてハイデガーがどのように述べているか見てみよう。
 ここは細谷訳から引用してみたい。この訳では Sorgeは「関心」とされている。
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現存在の存在とは、《(世界の内部で出会う存在者)のもとでの存在として、(世界)の内にすでに、おのれに先立って存在する》ということである。この存在が、われわれが用いる関心(Sorge)という名称の意義をみたすのである。
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 つまり、Sorgeとは、「現存在の存在 Das Sein des Daseins」である。現存在ではなく「現存在の存在」とはどのようなものか。それは、現存在=所有を常に自らとともにあるのではなく、「おのれに先立って存在」させるのだ。つまりは、未来ではなく過去へと、それが持つ「時間」が手をさし延べているものだ。
 それはどのように「先立って存在する」かというと、「世界の内部で出会う存在者のもとでの存在として」あるのだ。
 つまりは、
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 世界=内=存在が本質的に関心(Sorge)である……
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 ということである。そして,
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《おのれに先立つ存在》の「おのれ」とは、そのつど、世間的=自己という意味での自己を指しているのである。
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 つまり、「おのれ」とはハイデガーのいう「人間Das Man」、ときに「世間」とも訳されるそれである。「他人」と書いて「ひと」と読むことがあるように、「世間的=自己、という意味での自己」とは、社会生活を営む上での社会的人格と考えればいい。
 そして「おのれに先立つ存在」とはSich-vorweg-seinであり、sichは再帰代名詞である。おのれに先立つのがおのれとか、この辺りの翻訳はどの訳書を見ても苦しそうだ。
 苦しいのは当たり前で、ハイデガーも苦しんでいるからだ。
 存在に対する精神の働きとして、普遍的でありながらそれにあてはまるドイツ語が上手く見つからないのである。
 Sorgeは「気づかい」「関心」の前に、「心配」「憂慮」の語義があるように、時間軸としては「未来」を意識した言葉だ。しかし、ハイデガーはそれを無理やり「過去」へと逆転させようとしている。クーラの神話の存在を知ったとき、僥倖と思ったことだろう。Sorgeはラテン語でCuraであり、これで過去の方へと意味を広げる手がかりができたように見えるからだ。「ギリシア語万歳!でもラテン語はちょっとね」のハイデガーが、ここで他の部分では見られないほどラテン語を重く用いているのはそういうことだろう。
 おのれへと先立ってある精神の有り様について、とりあえずはSorgeの語を充てることで切り抜けることができる、と考えたわけだ。

 ドイツ語一番のハイデガーには悪いが、そんなに回りくどいことをせずとも、日本語にぴったりの言葉がある。
 それは「なつかしい」という語だ。
 そう、ドイツ語には「なつかしい」にあたる単語がないのである。

 次回は、その「なつかしい」についてもう少し。


 

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