2017年2月10日金曜日

ほんまでっか?ハイデッガー!【…の現存在について述べつつ世界・内・存在や実存についても開示していくよの続き編】

財産とは何か、ということについてきちんと語るために、もう一度「死」の問題に立ち返ろう。
「死ぬ」とはどういうことか。

 人は「死」についてどのように認識しているか。
 死は決して経験できないものであり、死そのものを認識することは不可能だ。できたと思っても、それは錯覚である。いわゆる臨死体験とかね。
 だが、その「錯覚」が重要なのだ。臨死体験において人が「経験」している「死」とは、自分がいない世界を認識することで成り立っている。つまり、「死について知る」とは、「自分がいない世界を知る」こととイコールで結ばれているのだ。
 自分はたまたまこの世界にいて世界を認識しているが、やがて自分が死んでも世界はそのままあるし、それ以前に自分が生まれてくる以前から世界はあったのだ。
 死を知ることはこのように世界を知ることであり、人間が世界を知り得るのは人が「死ぬ」からであって、「生きるのをやめる」からではない、ということだ。ただ「生きるのをやめる」ものにとって、自分がいない世界のことなどどうでもいいからだ。
 死を、世界を、認識する契機として、眼前にまざまざと現れるのが「財産」と呼ばれるものである。

 まず、「自分の財産」というものについて考えてみよう。その「財産」は自分が死ぬことで自分のもではなくなり、自分のいない世界に生きる誰かのものとなる。ならば「自分の財産」が「自分の」となる以前、自分がこの世界に生を受ける以前に「誰かの財産」であったはずである。
「財産」とはこのように、死を超えて所有が正当化されることで「財産」となるのだ。
「財産」とは死を超えて存在するものであり、死を超えるものはすなわち「実存」となる。
 思い出して欲しい、ギリシア語で実存を意味するουσιαウーシアは、元々「財産」を意味したということを。
 現存在の本質が実存にある、というのはこういうことだ。所有の本質は死を超える財産にある。
 古代ギリシアにおいて、実存はウーシアであるとともに、財産はウーシアであり、また土地(不動産)もウーシアと呼ばれる。さらにはまた現代においても、財産propertyとは土地propertyである。
 所有(=現存在)の本質は、財産が土地であるときにいっそう強く現れる。
 川原栄峰が「存在とは居住だ」と言うのはこういうことだ。アドルノが「現存在に本質はない」というのは、所有そのものがその起源において無根拠であるからだ。それはルソーが『人間不平等起源論』で説いたことでもある。
 人が死にうるからこそ、死を超えて存続するものは財産(ウーシア)となり、それを所有(=現存在)するならば人は実存(ウーシア)しうるのである。
 じゃあ、土地を持たない、何の財産もない人間なら、「死ぬ」のではなくただ「生きるのをやめる」ことで、現存在=所有から逃れ出ているのだろうか?
 そんなことはまったくなく、むしろよりいっそう強く囚われている、ということを次回に。



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