さらに上級者になると、なにやら川やら花畑やらがでてきて、その向こうに親しくしていた故人が手招きしてたり、来るな来るなしっしっとしてたり、楽しそうに遊んでいたりすると聞く。故人が取っ組み合いの喧嘩をしていたとか、白目をむいてちあきなおみのマネをするコロッケをマネていたとかは聞かない。あったらいいと思うが。
そうした「体験」が死後の世界の存在を証明しているかはさておき、ここでわかるのは死の間際において、人生のあれこれはすべて「なつかしい」ものとなる、ということだ。彼岸に待ち受ける人たちもすべて「なつかしい」人たちばかりだ。
そうしたことと同じようなことを、ハイデガーに語らせると以下のようになる。
……………………
気づかいとは死へとかかわる存在である。先駆的決意性を私たちは、現存在の端的な不可能性という特徴づけられた可能性へとかかわる本来的存在と規定しておいた。じぶんのおわりへとかかわるそういった存在にあって、現存在は、みずからが「死のなかへと投げこまれながら」それでありうる存在者として本来的に全体的に実存する。
……………………
この部分、ハイデガーが「気づかいSorge」という語によって無理矢理に語ろうとしているため、「死へとかかわる存在Sein zum Tode」なんて言われて混乱させられてしまう。ハイデガーがSorge を「不安」や「憂慮」として扱っているなら、「死への不安」として単純に解釈してしまえるのだが、「不安」についてはAngst の語を充てていてSorgeはまたそれと別扱いにしている。でなければわざわざ「気づかい」の訳語を充てることもない。じゃあ、一体これは何なのか。と翻訳をただ読むだけで理解しようとすると、困ってしまってわんわんわんなのである。
しかし、ハイデガーが死について「なつかしい」ものであることを語ろうとしている、ということに気づけばすんなり受け入れることができる。
「死」がどうしたとか「先駆的決意性」だとかものものしい筆致だが、人は死を想うとき、恐怖とともになにやら「なつかしい」気持ちがわいてくる、ということをハイデガーは語ろうとしている。それは死を乗り越える存在者、つまりは時を超えてある「ふるさと」の中にある「実存」として自らをとらえ直すことである。その「ふるさと」とは墓のある場所であり、墓とは自らが死後に入るところであり、『上海バンスキング』で吉田日出子演じるマドンナのまどかが、シロー向かって「あたしたち、いっしょのお墓に入るのよねえ」と問いかける、死してのちすすんで往く慕わしいところである。
ドイツ語に「なつかしい」にあたる語がないのは、ちょっと知られた話だ。Nostalgie verspürendとかなんとか辞書に出てくるが、説明的で日常には使用されない。
だいたい日本語の「なつかしい」はNostalgischなばかりではない。別に生まれ故郷への「郷愁」を想わなくとも、自らの生きた歴史になんら関わりがないものですら、それが過去にあるものでなおかつ慕わしいものであれば、なんだって「なつかしい」のだ。最近は時代遅れのものを揶揄する「煽り」の意味まで含んでいたりする。
ドイツ語にないものを、ハイデガーは無理矢理ドイツ語で語ろうとしているため、不必要なまでに難解になっているのだ。
以前のエントリーで「(ハイデガーの)難解さについては、まずそれが「ドイツ語」だということがある」と書いたが、それはこういう事情も含んでいる。
念の為、言わでものことを断っておくが、これは日本語の方がドイツ語より優秀だとか、そういうことではまったくない。むしろこれは、日本語というものがけっこういい加減なものだ、ということから生じてくる「事態」なのである。
そして日本語のいい加減さは、「存在」ということそのものにもまた関わってくる、ということを次回に。
ヘルダーリンを朗読するハイデガー
0 件のコメント:
コメントを投稿