2017年2月18日土曜日

ほんまでっか?ハイデッガー!【…の現存在について述べつつ世界・内・存在や実存についても開示していくよの続きの続き編】


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不死なるものが死すべきものであり、死すべきものが不死なるものである。かのものの死をこのものが生き、かのものの生をこのものが死している。
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 ヒッポリュトス『全異端派論駁』(Ⅸ 10)  に見られるヘラクレイトスの言である。ヘラクレイトスは「人間とは何か?」と問われて「死にうる神である」と返し、「神とは何か?」との問いには「不死なる人間である」と応じたという。(こちらのはルキアノスによる)
 死にうるものだからこそ、死を超えた不死なるものを知り、不死なるものを知るからこそ、実存ουσιαに至るのだ。
 それは土地という「財産」を世代を超えて相続するとき、非常にわかりやすく現れる。
 しかし、ハイデガーの「現存在」(=所有)とは、人間と世界を存在させるものであり、近代的資本主義的に金銭でやり取りできるものとは違う部分も含んでいる。(同じ部分も含んでるけどね。だから現存在はよく頽落するのだ)

 土地が財産としてその実存を帯びるとき、それは何者かの「所有」するところであり、所有し得ないものにはなんら関わりなく存在するように思われるかもしれない。
 しかし、それは土地の本質ではなく、土地とは誰もが同時に所有するものなのだ。
 この場合、土地という言葉を「ふるさと」に置き換えてみればわかりやすくなるだろう。
 私のふるさと、彼のふるさと、何々氏のふるさと、その所有がなんらかの形で登録されておらずとも、ふるさとという土地の本質は誰もが所有しうる。そして、所有された土地には名が与えられる。土地が名を持つことで、そこに住まうものたちにアイディンティティが生じる。それは「◯◯の××」という形の人名となって表される。
 古来、貴族なり武士なり、その姓は土地の名であった。それはヨーロッパでも同じである。ド・クインシーだとか、ダ・ヴィンチだとか、「クインシー地方の」「ヴィンチ村の」という意味を持つ。土地がそのままその人の名となるのだ。
 それはのちに、貴族のみが持つ姓となり、その土地を所有する証となった。
 つまり、土地を所有すること、ふるさとがあること、それは同時にその土地なりふるさとなりの「空間」にその人が所属することを示している。
 これが「世界・内・存在」とハイデガーが呼んだものである。

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本質からして世界内存在によって構成されている存在者は、それ自身そのつどみずからの「現」である。ist selbst je sein"Da"
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 とハイデガーは言う。
「現Da」とは、「その場」である。その場の「土地」に属することによって、すなわち「世界・内・存在」によって、存在者は構成される。
 つまり、「富」として「その場」、その「土地」を所有することがなくとも、その人がまったくの無産者であったとしても、人は「ふるさと」を「所有」し、「富」などというものを介在させずとも直接に「ふるさと」に所属するようになる。
「ふるさと」はその人が生まれる前から存在し、死んだあともずっと存在する。生まれる前には自分ではない誰かの「ふるさと」であり、死んだあとも自分ではない誰かの「ふるさと」として存在し続ける。
 かくして、「ふるさと」は実存へと変貌し、現存在はその動機としてかけがえのないものとなる。誰かの「所有」(現存在)でなければ、その土地は「ふるさと」とはならないからだ。
「ふるさと」に自らの存在を投げ込むものにとって、「ふるさと」は己の生命よりも大切なものであり、ましてや赤の他人の生命など、それを守るためなら塵芥のごと扱って当然になるのである。

 解釈Auslegungしてみればなんのことはないが、ハイデガーが書くとなぜやたらと難解になるのか。
 それはハイデガーが「ドイツ語」で書いているからである。
 ……という話を次回に

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