『存在と時間』 旧訳 |
それが「現存在」というやつである。現存在は「人間」のことで、存在を規定する特別な存在だというのだ。え?存在って、人間を特別扱いすることで規定されるのか? なら、人間という「存在」はいったい誰が規定すんの?
とにかく、謎の鍵は「現存在」にあることだけはわかった。人間は現存在であることによって、他の存在を規定しうる存在である、と。
そして「存在」ということについて、科学万能の現代に生きる人間はどうしても理科学的に、科学の根本を規定するものとして考えてしまいがちだが、ハイデガーは啓蒙主義と現象学の流れを汲む合理主義について、決定的に絶縁している。『存在と時間』を出版してからは、自らの作品の主要部分を「不吉な帝国」を否定することに割いていた。「不吉な帝国」とは、科学・技術・進歩の理念が作り上げる、近代理性の三つの大きな偶像のことである。
ツォリコーン・ゼミナール |
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これから話しあうつもりのことのために、一度あらゆる科学を排除しなければなりません。今ここでは科学を使わないということにしましょう。
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科学を排除して語る?
そのようなことをしてまともな話ができるだろうか?
と、近代的理性の帝国の忠実な臣民である我々は考えてしまうわけだが、ハイデガーにとっての人間の存在とは、理性や科学によって規定されるものではなく、ただそれそのものとしてとらえられなくてはならないものだったのだ。
これらのことも、現存在=所有であるとわかったなら、すんなり飲み込むことができる。「これぼくの!」と幼子が宣言するとき、そこには科学はもちろん、理性だって入り込む余地はない。そして、人間の存在について、さらに存在そのものについて語るには、その所有の始まりのさらに背景にある所有そのものについて知る必要がある。
まず、所有について人間を人間たらしめるものであるなら、果たして動物は所有しないのか、どうか。犬が自分の犬小屋に靴の片方を溜め込んだり、駐車場のハクセキレイが縄張りを主張したり、クロヤマアリが巣に餌を蓄えたり、そういうのは所有とは呼ばないのか?
結論から言えば、動物は所有しない。いや、できない。なぜなら、動物は「死なない」からだ。ハイデガーによれば、動物は死ぬことはなく、ただ「生きるのをやめる」だけだ。
ゆえに、動物は「貧しい」
動物は「死なない」がゆえに、所有することができないからだ。
そのことについて、ジャック・デリダは以下のように語る。
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獣と主権者II (ジャック・デリダ講義録) |
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そう、デリダも「所有」について気づいている。しかし、そのことについてはっきりとは言わない。開示される事柄から、複雑なステップでつねに逃れ出していくのがデリダだからだ。
動物は「死なない」がゆえに、「所有」できないがゆえに、貧しい。
人間は「死ぬ」ゆえに、「所有」するゆえに、「存在する」
では、「死ぬ」とはどういうことか。
ごく当たり前のこととして、人は死ねば所有できなくなる。巨万の富と言えど、墓の下までは持っていけない。現存在は死を超えられないし、死にさえぎられる、それはそういうことだ。
おや? では死ぬゆえに所有できるものとは何だろう?
それは「財産」である。
おやおや、どんどん矛盾していってる。巨万の富は財産ではないのだろうか?
と、ここで次回に続きます。
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