2017年1月20日金曜日

ほんまでっか?ハイデッガー!【…の現存在について他人のふんどしで書いてみる編】

 ちょっとここで、他の人たち言を引きつつ、他人のふんどしでもってハイデガーについて語ってみたい。

本来性という隠語―
ドイツ的なイデオロギー
について 
(ポイエーシス叢書 (11))
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《現存在》が《存在的》「である」とか《存在論的》「である」ということは厳密には、そもそも判断不可能なのである。というのも現存在》ということで思念されているものは、或る一つの基体であり、その限りで《現存在》という概念の持つ意味は、非概念的なあるものだからである。
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「アウシュヴィッツ以降、詩を書くことは野蛮だ」としたテオドール・W・アドルノによるハイデガー批判である。アドルノはハイデガーが「本来的」と「非本来的」に存在を区別することについて、そこにファシズムとの親和性を見出している。
 ここでは「現存在」を、存在でもその概念でもないと指摘している。


西谷啓治著作集 第8巻

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 現存在の根柢が虚無であるといふことは、死といふものに現はれてゐる。ハイデッガーは、人間存在の根柢はそれ自身、死の中への被投性(Geworfenheit in den Tod)であるといふ。
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 死への存在として始めて、現存在は他の何人でもない自己自身として捉へられるのである。死は現存在を、否應なしに單獨なる現存在たらしめる。すなはち自己を、單獨者としての自己ならしめるのである。その單獨化によつて、實存は始めて、その『現に』(Da)あるといふことの意味を開示する。
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 西谷啓治『ニヒリズム』の第六章「哲學としてのニヒリズム(ハイデッガー)」からである。
「死」とか出てきてなにやらものものしいが、現存在が「所有」であるとわかってしまえば、どんなに財を積んでも「墓の下まで持ってはいけない」ということなのだと了解できる。誰でも独りで死んでゆくのだから、それを思えば「実存」と呼ばれる「財産」は、生きていてこそ『現に』(Da)あるというわけだ。
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川原栄峰『ハイデッガーの思惟』
    西谷啓治は戦前に「近代の超克」に参加するなどしたため、戦後は公職追放の憂き目に遭っている。ハイデガーから影響を受けた人はそういうのが多い。

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現存在には(中略)Was-sein, essentia(本質)がない。
そのつど本質を選び、決め、それに対して態度をとるのが現存在自身であり、その現存在自身の動性の方向が本来の「それ自身であるか、それ自身であるのではないか」が、つまり本来的か非本来的かの選択が、まさに彼の主要関心事をなしているのだから、彼は本来的な彼自身を選択しているのではなく、むしろこの選択を放棄し、世人(Das Man)の一人となっている。
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「ハイデッガーの存在って居住でしょ?」という川原栄峰による現存在である。
 ハイデガーがあんなに長々と解説している現存在について、本質がないじゃん、と喝破している。なので川原栄峰は現存在を人間どころか、世間一般の真っ平らで特徴のない人間であるところの世人だとしている。けっこうアドルノと似た解釈だ。
 現存在が本質を持たないのは当然だろう。なぜなら、現存在=所有とは人間の属性(property)でしかないからだ。
 そしてそれは財産(property)であり、自らが属する土地(property)でもある。


……といったところで、次回は現存在であるところの所有と実存であるところの財産について。






 以下、ちょっと追加で九鬼周造。

講義 ハイデッガーの
現象学的存在論 
(九鬼周造全集 第十巻)
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 Dasein は da-sein である。先づ Sein について考へて見る。Heidegger は Grundartikulation des Seins といふことをいふ。
    ⑴ Was-sein(τι εστιν)
                     So-sein
                     essentia(quidditas)
                     Wesen         ιδεα
Sein
                 ⑵Wie-sein
                     Dass-sein(οτι εστιν)
                     existentia
                     Sein

卽ち Seiendes は Was-sein と Wie-sein との二つの Sein をもつてゐる。
 さて Dasein とは我々がそれであるところの Seiendes 卽ち Mensch であつたが、この Dasein は他の Seiendes に比して勝れたところを有つてゐる。先づ第一にそれは、
  Es geht(それが問題である。それが肝要である(=es kommt darauf an〔es geht darum〕)diesem Seienden in seinem Sein um dieses Sein selbst.
 次に Dasein は Seinsverständnis をもつてゐる。 Dasein はその Sein を何等か會得してゐる。
 Die optische Auszeichnung des Daseins liegt daran, dass es ontologisch ist.
 もとよりここでいふ ontlogisch とは Ontlogie を建設する意味ではない。Dasein が ontlogogisch であるとは vorontologisch の意味なり。卽ち理論的な判明な問を Sein に對つて發する前に旣に何等か Sein を會得してゐる、vorontologisch なり。
 この二つの特徴に基いて、卽ち、1) Dasein にあつては Sein そのものが問題である。いかに Sein するかが問題であることと、2) Dasein は Seinverständnis をもつてゐるといふこと、この二つは無論一つにつながつてゐるがそれに基いて次のことが云へる。卽ち Dasein の Was-seinWie-sein に外ならない。
(記号など写し切らない部分があったが、ご寛恕願いたい)
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 なんだか天下の九鬼周造をおまけのように扱ってしまって恐縮だが、これはこれで非常に教科書的にまとまっていて、すごくすっきりして見通しが良い。
 しかし、 現存在Daseinはやはり人間Menschである。しかたないといえばしかたないが、ハイデガーは Mensch を旧来的な古い「人間」の概念を表すのに使用しており、Daseinをそうだとするのは少々混乱の元のように思われる。
 また、「 Dasein の Was-sein は Wie-sein に外ならない」という部分などは、川原栄峰の解釈とは異なっている。どちらが正しいというのではなく、九鬼周造はハイデガーの意図に忠実であり、そうした意味でまったく正しいのだ。
 この「正しさ」が問題である。
 九鬼周造のきれいにきちんとまとまったハイデガーを読むと、ハイデガーの哲学は一種の「永久機関」なのだという印象を受ける。
永久機関の一例
九鬼周造のようにその細部を逐一明らかにしていくと、それは矛盾なく素晴らしい体系を形成しているかのように見える。
 永久機関も、細部の運動を見るならそれぞれに正しいので、それは一見矛盾なく動くように思われる。しかし全体を見渡せば、エネルギー保存則を知らずとも、どこかおかしいと感ぜられる。
 ただし、哲学には物理的な法則は適用されないので、「永久機関」からは文字通り永久に「エネルギー」を取り出すことができる。しかし、その系は閉じており、「存在」や「現存在」や「時間」(空間的な)についていくらでも語り続けられはするが、その外にはエネルギーが伝導されない、つまりは「時間」としてその永久機関の動く空間に働きかけることができないのだ。
 ハイデガーの哲学の魅力の一つはここにある。これさえやってりゃ、ずーーーーっと飯の種に困らないのだ。金の卵を産むガチョウみたいなもんか。
 だがそれでも、我々はそのガチョウを殺して腹をさばき、金などどこにもないことを確認する必要があるのだ。

 さらに、付け足しの付け足しで、どうでもいいことを。
 この講義、初っ端にハイデガーの哲学についての定義が引用されているのだが、引用元が (Sein und Zeit, S38,436) となっている。
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第一章 序說
第一節 現象學的存在論の意義
⑴ Philosophie
 Heidegger は哲學を定義して曰く、
Philosophie ist universale phänomenologische Ontologie, ausgehend von der Hermeneutik des Daseins, die als Analytik der Existenz das Ende des Leitfadens alles philosophischen Fragens dort festgemacht hat, woraus es zurückschlägt.〔哲學とは、一般的現象學的存在論である。それは現存在の解釋學から出發するが、この現存在の解釋學は、實存在の分析論として、すべての哲學的の問ひの導きの絲の末端を、其處からその問ひが飛び出し、また其處へ打ち返すところの彼處に結び付けた〕(Sein und Zeit, S38,436) 
(注:アンダーラインが二重になっている部分などは再現できませんでした)
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 S38とは、三八節ということだが、ハイデッガーの哲学についての定義は最終節である「八三節」である。
 ついでなので、ちょっと熊野訳のほうからも引用してみよう。

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哲学とは一般的な現象学的存在論にほかならない。それは現存在の解釈学から出発し、その解釈学は、実存の分析論として、いっさいの哲学的な問いのみちびきの糸の末端を、問いがそこから発現し、そこへと帰着するところに固くむすびあわせておくものなのである。
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 これ、まったく同じ文が冒頭近くの第七節に現れており、ハイデガーがとりあえず『存在と時間』を締めるために、無理やり最終の八三節であてはめたようなふうに見える。
 そういう興味深い部分なので、引用の節が違っているというのはちょっとまずいように思われる。九鬼周造が間違えたとも思われないので、編集の誤植なのだろうか。私が見たのは一九八二年の初版九鬼周造全集第十巻だが、後の版では直っていたりするのだろうか。

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