2017年1月13日金曜日

ほんまでっか?ハイデッガー!【…の「現存在」の正体について編】

世界の大思想〈第28巻〉
ハイデッガー 有と時(1967年)
「現存在」という単語は、日本では日常で使用されることはない。一応哲学用語のような扱いを受けているわけだが、ドイツ語では普通に日常でも使用される。といっても、「現存在Dasein(ヘーゲルが使用すると「実有」とか「定有」と訳されたりする)」がそのまま使われるのではなく、「現da」+「存在sein」という感じで、Es ist miemand da.(今誰もおらんよ)のようにばらけていたりする。あ、istってのはseinの三人称単数ってやつね。
有と時 (ハイデッガー全集)
   こういうのは別に珍しいことじゃなくて、弁証法の止揚aufhebenだって、拾い上げるとか、なかったことにするとか、逮捕するとかの意味で普段には使われる。ハイデガーが「ドイツ語でないと哲学できない」とかぬかしたのには、この辺の事情もあったりするのだろう。

 じゃあ、ドイツ語で語ってればそれでいいのかというと、どうもそれではまだ不十分だということはハイデガーもわかっていて、後期にはドイツ語の単語を「解釈」していたりする。Seinに対してSeynなんて言葉を作ってみたりとかね。日本語訳では原存在なんて訳されててややこしい。
 
 話を「現存在」に戻すと、ハイデガーはDa(いま、ここ)のSein(存在、有る)について、ずいぶん長々と『存在と時間』で「解釈」している。
 以前にも書いたが、『存在と時間』の本当のタイトルは『現存在について』なんじゃないかと思えるくらいだ。
 通常「現存在」は、「存在を規定する存在者」であり、「人間」のことだ、ということになっている。
 まあ、人間にとって「人間」とは何かというのは謎であり、それを哲学的に解釈するのが難しいのは当たり前だ、と済ましてしまえばいいのかもしれないが、それだとやっぱり十分に了解できない部分が出てきてしまう。ハイデガーを無駄に難解にしているのは、「現存在=人間」と捉えてしまうことではないだろうか?
 ハイデガーは「現存在」について、きちんと「開示」(わかりやすく目の前にさらすこと)ができていない。
 そしてそれは、ハイデガーがドイツ語にこだわりすぎたためではないだろうか。ドイツ語でドイツ語のDaseinを「解釈」するのは、自分の襟首をつかんで宙に引き上げるように、どこか無理があるのだ。
 
 では、ハイデガーへの愛にかけては本家ドイツにも劣らぬ、日本の言葉で「解釈」してみよう。
「現存在Dasein」は、日本語で「現」の「存在」である。それは辻村公一によって、「現有」すなわち「現」の「有」と訳されている。
 両方に共通するのは、Daを「現」と訳していることだけだ。
「現」はそこに現れていることであり、「その場」にあることである。
「場」という漢字は空間の意味合いが強く出るが、元々は神事を行うことであり、超越的な時間のニュアンスも含まれる。fieldの翻訳語として物理理学でも使用されるし、ブルデューの社会学にも登場する。じゃあ、「現」は時間的なニュアンスが強いから、「現場」にしたらいいだろうか?なんだか事件が会議室で起きてないとかそういう話になりそうだ。
 迷路に入ってしまっているので、もう一度単純に考えよう。
「場」も、「現場」も、つまるところ場所のことである。
 そう、場所の「所」こそが、本来の根底的な意味を照らし出すのだ。
 それは「戸」という神戸(かむと)を開く呪具として「斤」(斧鉞)により物事を始める神霊の意志を表す。

 そこでDaを「所」としてみる。
「所存在」というのも妙な言葉だ。しかし、Daseinのもう一つの訳として「現有」がある。その「現」を「所」に入れ替えてみたらどうだろう?
 そう、Daseinは、「所有」になる。

「所有」こそは、人間を「人間」たらしめ、存在を存在として人間に認識させる、その根源のあり方である。
 ハイデガーの哲学はそこに鍵がある。
 もう一度大書しておこう。

「現存在」とは「所有」である。

……まだまだ続きます
存在と時間を逆さに読む

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