今年、二〇一九年は『アキラ AKIRA』の年でもある。
一九八二年十二月六日午後二時十七分、東京に新型爆弾が使用され、三時間後には三度目の世界大戦が勃発した。その後、東京はネオ・トーキョーとして生まれ変わり、翌年にオリンピック開催を予定している……
というのが、漫画『アキラ』の設定である。一九八二年十二月はこの漫画の連載が開始された時期だ。つまりは、もしかするとありえたかもしれない日本、並行世界の日本、というわけである。
渋谷に現れたAKIRA |
こうした「予言」について、あれこれ語るのはもうすでに他の人たちがやっていることだろうから、少し違った視点からコメントしておきたいと思う。
まず、作中では語られていないが、この「新型爆弾」によって皇室は確実に滅んでいる。『アキラ』の日本は天皇のいない日本であり、もちろん元号なんてものもなくなっている。
もしかすると憲法もなくなっているかもしれない。少なくとも変わってはいるだろう。なんたって、自衛隊じゃない軍隊があってアーミーと呼ばれていて、強力な衛星兵器まで所有している。核はどうだろう。三次大戦のきっかけを「新型爆弾」でやらかしたから、国連から所有を禁じられている、ということは十分考えられる。
「新型爆弾」とは、言わずと知れた「アキラ」のことなのだが、これについて「東日本大震災」や「原発事故」を想起する人もいるようだ。
しかしそれは、二一世紀なって昭和が終わって平成も終わってからの感想であって、この漫画が連載されていた当時、そのカタストロフは天皇制の暗喩として語られていた。
世界大戦を引き起こした元であり、戦後はその力を封印されている、というわけだ。なるほど、確かにこうした捉え方は興味深くはある。
だが現状を見るならば、そうした分析はまったく当てはまらなくなってしまっている。どのくらい当てはまらないかというと、「アキラは天皇制の暗喩では」と口にしようものなら、半笑いで「あ、そ」とスルーされそうなくらいだ。
二〇一九年という『アキラ』の年に、「アキラ」が覚醒するのではなく天皇が隠居したが、現代の天皇制からは、「アキラ」ような破壊性は入念に切除されている。
かといって、破壊性の裏返しとして創造性があるわけでもない。
目につき鼻につくのは腐食性ばかりである。
世上では予言が当たったことばかり話題にされがちだが、それよりも問題なのは、『アキラ』の日本と現実の日本の「違い」ではなかろうか。漫画と現実が違うのは当たり前だが、あまりにも「違いすぎる」のだ。
『アキラ』に描かれている「日本」は、とても硬質でガッチリしもののように描かれている。
昭和の頃、社会というものは、このようにガッチリしたもので、金田たちのような「健康優良不良少年」たちが、少々暴れまわったところでビクともしない存在、というイメージだった。
二〇一九年の現在はどうだろう。ネットに垂れ流される人々の「ご感想」を見ていると、多くの人々は社会が不安定で、ちょっとしたことで崩れかねないようにイメージしていることがわかる。
このように違ってしまったことの背景には、インターネットと携帯電話の存在があると思う。
『アキラ』には携帯もネットも出てこない。
おそらくは、情報が全て政府によって管理されており、所謂マスコミすらも民営ではないのだろう。
そうした自由度の低い社会では、自分たちの置かれた境遇について、揺るがし難いもののように考えてしまう。
昭和という時代は、現代よりも自由度について低かったし、その分若者は鬱積したものを溜めやすかった。暴走族は日本中にいたし、それに加わらずとも、「盗んだバイクで走り出す」ような歌に魅せられた若者は大勢いた。
漫画に描かれた「アキラ」というカタストロフは、そうした状況下にある若者たちにカタルシスを与える存在だった。
で、実際に二〇一九年となって、携帯やネットが登場したことで、社会はどのように変わってしまっただろうか。
まず念頭に置きたいのは、携帯やネットなどは電気がなければ全く意味をなさず、そのシステムは硬質でもガッチリしたものでもない、ということだ。
東日本大震災の時、原発が壊れて茶番じゃなくて輪番停電した時も、「電気」に頼らざるを得ないシステムの脆弱さが身に沁みたはずだ。直近では、北海道や千葉の地震などでもそうだった。
しかし、現実の社会はすでに、携帯やネットなどの情報システム抜きには存在できないものとなっており、人々は自らの寄って立つ社会が非常に弱々しいものだとイメージしている。
するとどいういうことが起きるかというと、とにかくこの弱っちい社会を守らねばならないから、みんなでこの社会が揺るがないように、改革や変革などで動揺することがないようにしたい、と人々は考えるようになる。盗んだバイクで走り出してる場合じゃないし、「健康優良不良少年」たちが暴れまわる余地などないのだ。
もはや多くの人たちが、カタストロフも、それに連なるカタルシスも望んではいない。
二〇一九年の現代において、「アキラ」は全く無用の長物として眠り続けるしかないのだ。
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