2017年11月4日土曜日

ほんまでっか?ハイデッガー!【…が戦後に語った「民族」ってなんかちょっとアレだ編】

「なんでよりにもよってナチなのか?」というのは、戦後ハイデガーに取り憑かれた人たちが揃って抱えた疑問だった。
「ナチを賛美した」というところから遡っても、どうしてそれが「存在」に繋がるのか、よくわからなかった。
 ナチとの関連として、ハイデガーが『存在と時間』の最後の最後にちょっとだけ「民族」について触れたことについても、その「民族」という単語の存在が指摘されるばかりで、それが存在論とどのように繋がってくるのかよくわからなかった。
 なので、ハイデガーはずーーーっと「二十世紀最大の哲学者」のままだった。

 とりあえずその「民族」について、後期ハイデガーにおいて『存在と時間』に並ぶ重要な著作とされる『哲学への寄与Beiträge zur Philosophie』から引用してみたい。

哲学への寄与論稿
-性起から(性起について)
- ハイデッガー全集 
第65巻

………………
 現-有の方からのみ、民族の本質は把握できる。それは言い換えるなら同時に次のことを知ることである。すなわち民族とは、決して目標とか目的とかではあり得ず、このような意見は「リベラルな」「自我」- 思想と「生」の維持という経済的な考えを「民族的規模に」拡大するものにすぎない、ということである。
 しかし民族の本質は、民族の「声」である。このは、下品で生地のままの、歪んだ教養を受けておらず、そしてまた教養をもたない「男」の、いわゆる直接的な吐露という仕方で語ることは、まさにないのである。けだし、このような仕方で{語るべく}呼び求められた証人はすでに、甚だ歪んだ教養を受けており、そして有るものに対する根源的な諸関連のうちで動くことは、もはや久しく無くなっている。民族のは稀にしか語らず、少数の者たちにおいてしか語らない。はたしてこの声はなおも鳴り響かせることができるのだろうか。
………………
 以上は『哲学への寄与』「一九六 現-有と民族」の引用である。文中の{語るべく}は、文意が通りやすくするように訳者(大橋良介、秋富克哉、ハルトムート・ブフナー)がつけたした言葉だ。全集版の翻訳なので、seinは「存在」でなく「有」に、daseinは「現存在」でなく「現有」となっている。それから、ゴシックにした吐露についてはErgußと注釈されているわけだが、えーと、これまた困ったもんなんだけど、前にも出てきたvergewaltigenといい、ほんとにムッツリなんとかなおっさんやなあ、と嘆息させられる。英訳だとejaculationとかしてるんだろうか。むしろevacuationか?そして、その吐露する「教養をもたない『男』」とは、やはりあの「男」なのだろうか?
 それはともかく、「現-有の方からのみ、民族の本質は把握できる。」と、わざわざイタリックで強調してあるわけだが、現-有とはda-seinであり、現存在であり、それはすなわち「所有」である。何を所有するかと言えば土地であり財産(ουσιαウーシアすなわち実存)であり、時を超え歴史を超え引き継がれて所有されるものなのだから、民族の根本が土地の所有、または所有したいという欲望の現れにあるのなら、民族の本質とやらが現存在=所有によってのみ把握されるのは、至極当然のことと言えよう。
 そしてさらに、「民族」について「二五一 民族の本質と現-有」へと続く。
………………
 ある民族が民族であるのは、民族の神を見出すことの内で、自らの歴史を割り当てられて受け取るときのみである。その民族の神は、民族にそれ自身を越えて彼方へ向かうように強い、そのことによって民族を有るものの内へと置き戻すのである。
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 この部分は「一五 『民族の哲学』としての哲学」からの繰り返しである。
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 民族が初めて民族になるのは、この民族の最も唯一的なものたちがやって来るときである。
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 「唯一的なもの」とはアリストテレス的な意味での「神」である。ハイデガーはさらにこうつづる。
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 る民族の哲学とは、この民族をある哲学の民族となし、民族を歴史的にその現-有の内へ基づけ、の心理の見張りの役へと定めるところの、かのものである。
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 途中、とボールドがかかっているのは、訳書では字の横に・が振られている。これはSeinではなくSeynという古い言い回しである。他の翻訳では「原存在」なんて訳されたりしていてややこしい。SeinとSeynは発音も同じらしいんだが、講演の時などどうしていたのだろうか。こういうことをするから「ただの言葉遊び」とか揶揄されるのだ。
 それはともかく、ハイデガーはここにきてまた、「民族の哲学」とかいう不穏な空気をまとった言葉を提出してきた。
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 「ある」民族の哲学はそれゆえ、なんらかの素質や能力から算出したり方針を定めたりできるものではない。反対に、ここで哲学についての思索が民族的であり得るのは、思索が次のことを把握するときのみである。それは哲学がその最も固有の根源を自ら跳躍的に開かなければならない、ということであり、そしてそれが成就し得るのは、哲学がその第一の本質的な原初にそもそもなお聴き従い属すときだけだということである。このようにしてのみ哲学は、「民族」をの真理の内へと突き入れることを能くし、逆にある存在する民族と称する民族によって非本質へと凌辱されることを、免れるのである。
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 やれやれ、今度は「凌辱」ときたか。とにかく、色々難しく語ってはいるが、ここの「民族」とはギリシア民族であり、ゲルマン民族である。
 その民族によるところの「哲学」は、個々人の素質や能力ではなく、民族的であることを根源として跳び出してくるものなのだ。で、それができるのはギリシア人とドイツ人だけだ、というのを匂わせつつ、哲学を持つ民族は永遠であり、別な民族にその本質を汚されることなんかないし、やっぱ民族にとって哲学はあり、哲学って民族と共にあるよね、というわけである。
 ハイデガーの語る「民族」とは、通常思い浮かべられるような歴史や言語を共有し、どこかで血が繋がっているような共同幻想を共有している人たちではなく、何らかの「特別」があって、それは「神」とか「唯一者」のそのまた彼方にあって、民族を「存在」させるものである。
 ハイデガーは、おそらく頽落した形への誤解を避けるためだろうが、それが何なのかはっきりと語らないようにしている。
「それ」とは、「ふるさと」のことである。

 次回に続きます。

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